2021年07月15日
平成の怪物・松坂大輔が今シーズン限りで引退することが発表された。
時代が令和になっているから、いつその時が来てもおかしくはない。そう思ってはいたが、2019年に現役を退いたイチローの時と同様、空虚感は否めない。同じように思っている野球ファンは少なくないはずだ。
松坂の野球人生を振り返ってみると、甲子園決勝戦のノーヒット・ノーランに代表されるような高校時代の快投やプロ入り1年目からの怪物のような活躍を見せた一方、30歳を超えたあたりから故障の影響によるパフォーマンスの低下で、全盛時代が短かったことも我々の記憶としては強く残っている。
今回の企画もあれほどの投手が「短命」に終わった育成の問題点を書いて欲しいという依頼だったが、個人的に思うのは、松坂が残してきた野球界への功績の方が圧倒的に多いということだ。改めて松坂が残してくれたものを振り返っていきたいと思う。
松坂を一言で表現すると、「平成の怪物」ではなく「平成の救世主」だと個人的には思っている。なぜなら、彼が登場しなかったら、甲子園であのフィーバーがなかったら、野球界はとうの昔に、他競技の勢いに飲み込まれていた気がしてならないからだ。
松坂が春夏連覇を達成した1998年頃、実は高校野球は最盛期からの下り坂を迎えている時だった。日本高等学校野球連盟が発表している甲子園の観客動員数を見てもそれは明らかで、90、91年のピーク時の90万人台から下降線を辿り、96、97年に至っては、60万人台まで減っていたのだった。
92年にJリーグが立ち上がり、漫画「SLAM DUNK(スラムダンク)」の流行とともに、サッカーとバスケ人気が高騰し始め、野球は人気スポーツの第1党の座から揺らぎつつあったのだ。加えて、98年はサッカー日本代表が史上初めてW杯に出場した年でもあった。
その年に松坂が登場したのだ。
97年の秋の明治神宮、98年春の選抜を連覇。横浜高、そしてエースの松坂は誰しもが目標とする存在となり、同世代の球児たちを刺激したのである。
それでも松坂は並みいるライバルたちをなぎ倒して夏の頂点にたったのだ。
それも、決勝戦でノーヒットノーランという偉業を達成する形で。
その年の夏の甲子園の観客動員数は90万近くまで回復。80回の記念大会で出場校数が増えたから参考記録ともいえるものの、1日の平均動員数では3000人もアップ。当時の盛り上がり具合がいかに凄まじかったか、推して知るべしだろう。
その後は雨が多かった2003年の大会こそ観客動員数を落としたものの、駒大苫小牧―早実の決勝再試合のあった2006年に高校野球人気は再加熱、その後の清宮幸太郎フィーバー、2018年の100回大会の100万人を記録するところまで繋がっている。2006年の田中将大(楽天)や斎藤佑樹(日本ハム)の世代が松坂の投球を見ていたのが10歳くらいと考えれば、その影響があったと容易に想像できる。
もっとも、松坂が起こしたのは高校野球人気の回復だけではない。
投手のスピード革命だ。
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