コロナ危機の今だからこそ、子どもが心置きなく遊べる環境は失われてはならない
2021年08月09日
生きていく過程で、私たちは常に何らかの混乱や危機に直面します。
危機はそれこそさまざまです。温暖化など地球環境の危機。異常気象による災害危機。グローバリズムの進展に伴う世界的な経済危機。体制の違いや民族紛争などに端を発する戦争の危機。民主主義の危機。そして、いま世界を震撼とさせているCOVID-19による感染症の危機……。
さらに、“解像度”を上げてみると、私たちの身の回りにも、実にさまざまな危機がある。コンビニですれ違った若者が、今日食べるものがない逼迫した状況かもしれない。あるいは、道ですれ違ったあの人は、明日の住む家がない状況かもしれない……。
こうした危機に際し、何より大事なのは、物理的心理的な安全です。そのような環境が担保されたうえで、私たちはそれを乗り越えていったり、自分なりに対応していくレジリエンス(強靱さ)を持っています。興味深いのは、レジリエンスを、私たちは子どもの頃、「遊び」を通じて培ってきたということです。
COVID-19は子どもたちの環境にも広く影響を及ぼしています。学校のイベントが二転三転したり、地域のお祭りが無くなったり……。この体験が子どもたちに与える影響はさまざまですが、ストレスがかかっている子どもたちも、少なくないかもしれません。
そんななか、子どもたちの遊びを観察すると、マスクやzoom会議、食卓の仕切りなど、登場するものが変化しています。現実に起きていることが、子どもたちの遊びに影響を与えているのです。つまり、子どもたちは遊びを通じて、複雑な状況を受け取って表現したり、「ものがたり」として再構築することで、変化する世界を生きています。
私はこれまで、児童精神科医として、トラウマケアなどを中心に、子どもや子どもを取り巻く環境に関わってきました。また、子ども、そして社会の「well being」を目指し、社会のなかにいきる私たち一人ひとりの市民性を醸成し、子どもたちの周りに「優しい間(ま)」を生む活動を幅広く行う認定NPO法人PIECESを運営。想像力を耕しながら多様な角度から世界をリフレーミングしていくプラットフォーム「リフレームラボ」で、キュレーターやクリエィティブディレクター、インタープリター、パフォーミングアーツのコーディネーターといった方々とともにプロジェクトを行っています。
そうした立場からすれば、危機が続く今だからこそ、子どもたちが心置きなく遊ぶことができる環境が失われないようにする必要があると思います。「安全」に遊べる場所が「不要不急」といわれることなく、社会に置かれていくことの大切さを、あらためて痛感します。
ここでいう「安全」は、いわゆる「大人にとって、危なくないから安心」とは少し違うかもしれません。危険がないということではなく、いろんなことに挑戦できるための「安全」な避難場所や「安心」な基地があるという意味です。「誰にとっての安全なのか」と問い、「それぞれにとっての安全は何か」を考え実践していくことは、例えばwell beingを考える時も、世界に生まれる境界線をリフレーミングしていく時も、大事にしています。
昨年度から、リフレームラボでは「みえないものと遊ぶ」をテーマに、さまざまなアーティストとの協働により、“ミエナイモノ”を感じ、体験し、その想像力を耕す「あそび」のプログラムを開発し、絵本や映像という形で日常に届けてきました。また、絵本や映像の空間を体験するための展示も行っています。その企画の一環として先日、「あそびを読み解く」をテーマにトークイベントを開催しました。
その中で、神話学者の石倉敏明先生は「神話や物語は解決や正解を与えるのではなく、解けない矛盾があったとしたら、解けないままでもあり得るさまざまなバージョンを想像し、体験する面白さがある」と語り、ミュージアムエデュケーターの会田大也さんは「子どもたちは遊びを通して自分たちでルールを決め、変えていく自治の可能性を体験している」という事例を紹介されました。また、臨床心理士の新井陽子さんは「あそびとは、考えることを奪わない場所である」とファンタスティックリアリティの可能性に言及されました。
本稿では、そんなさまざまな豊かさを持つ「遊び」について考えてみたいと思います。
インドの詩人・哲学者であるタゴールの『もっとほんとうのこと』という短編に、こころがここではないどこかへ旅する話があります。
私たちは生まれてから、刻々と変化する宇宙に身を委ね、地球の真ん中に引っ張られる力を感じ、自分の体に起きる変化をそっと受け取りながら、旅を続けます。そして、漂っていく自分の想像力を追いかけて、この世界にあるたくさんの「もっとほんとうのこと」に出会っていきます。
私たちが持つ世界を感受する力は、思考よりも先に世界を感知します。私たちの持つ想像力は、まだ見えていない世界に出会おうとし、他者や他の存在の目に映る世界を知ろうとし、耳をすませ、目を凝らし、知らなかった誰かの世界を受け取ります。
母親という他者の身体の中にいる時から、私たちは、手を動かし足を動かし、自分の指を自分の口に入れたりして、自分の身体を知覚します。その動かし慣れた身体が、この世界に出てきてから、遊びを通して、この世界を体験していきます。
私たちは、周りのものを手でつかんで、つかんだものを口に入れて、その感覚を一つひとつ確かめながら、身体の全てでこの世界を探索します。誰かの髪の毛を掴んだり、近づいてきた顔のお肉をつかんだり。そして自分にとって心地よい感覚と、不快な感覚を知っていきます。
おむつが濡れるのはどうやら不快で、新しいおむつになると心地よいらしい。私たちは、時に笑い、時に不快な感覚に泣き、周りの世界と自分をつなげていきます。不快な感覚を泣いて共有した時に、誰かが、例えばオムツを替えてくれて「不快」が「快」に代わるという体験は、この世界がちゃんと信頼できるものであると感じられる体験の入り口でもあります。
私たちは子どもの頃、他者が自分に向ける「言葉」を通して、自分の感覚や感情、この世界の輪郭を表すために、「言葉」というものがあることを知っていきます。「綺麗だね」「楽しいね」「悲しいね」「痛かったね」「赤い丸描いてるね」「緑のレゴを黄色のレゴの上に乗っけたんだね」など、これらの「言葉」はすべて、世界に輪郭を与えていく「言葉」たちです。
そうして言葉の存在を知った子どもたちは、今度は自分の中に芽生えた言葉によって、自分の感じた体験やとらえた世界を他者と共有していきます。「ねえ、みてみて」「はい、あげる」「ねえ、綺麗だね」「悲しかったの」「嫌だったの」。
その過程で、近くにいる私たち大人が、子どもから紡がれる言葉とその言葉が生まれた体験を否定することなく、「そっか、嫌だったんだね」「ほんとだ、綺麗だね」「教えてくれてありがとう」「ちゃんと見てるよ」などと受け取ることはとても重要です。
大人が勝手に判断するのではなく、一緒に目の前の風景を眺め、体験を共にしながら言葉を通して応答していく。そんな体験は、子どもにとって、「感情を受け止められた」「自分の経験を共有して大丈夫である」という安全や安心を感じる感覚に繋がります。
というのも、子どもたちの言葉は、大人たちの想像を超え、実に複雑だからです。「階段の音って短くて長いね」「赤ちゃんの泣き声って、好きだけどちょっとうるさい」。これらはすべて、子どもたちが教えてくれた言葉です。短いのに、長い。嫌いだけど、好き。うるさいけど、静か……。一見両極にあるように見えることは、決して対立しているわけでも、交互に現れるわけでもなく、同時に自分の中に共存しています。
こうした複雑で両儀的な感覚はどれかが正しいわけではなく、どれもが自分にとっては「本当の」感覚といえる一方で、同時に存在しているからこそ、ちょっぴり苦しい両極端の感情もあったりします。
そうした言葉を、子どもたちがもっとも発するのは遊んでいる時です。そこで、自分では気づいていなかった感覚や感情をすくい取ったり、両極にあるような感情が生まれたりするという複雑なことを扱っていく技術を身につける。その点でも、遊びはとても大切です。
危機に直面した時、遊びがその危機を乗り越える力を発揮することがあります。
例えば9.11の時、惨状の現場を目撃したある男の子は、「次にもし(ビルの崩壊が)起きたら、トランポリンをビルの下に置いて救出するんだ」という物語をつくって遊んでいました(ベッセル・ヴァン・デア・コーク著『身体はトラウマを記憶するー脳・心・体のつながりと回復のための手法』)
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