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子どもの率直な疑問から生まれる、真に自由な「自由研究」を!

コロナの制限下でも、小さな疑問を次の学びにつなげる夏にしよう

西郷南海子 教育学者

子どもたちの経験に「幅」を

 今年の夏もまた「我慢の夏」である。新型コロナウイルス陽性者の数が爆発的に増え、医療崩壊の声も聞こえている。地域によって状況は異なるとはいえ、子どもたちにとっては再び「我慢の夏」になるだろう。人との接触の制限や移動の制限は、夏休みらしい体験を大きく後退させている。大人にとっては、新型コロナが登場してから今日までの日々は、数十年の人生のうちの1年半である。一方で、6歳の子どもにとっては6年間の人生のうちの1年半である。同じコロナ災の1年半でも、ウェイトが明らかに違うのである。子どもたちが、人生の基礎となる子ども期をこのように過ごさざるをえないことを、私たちはもっと真剣に考えるべきではないだろうか。

  筆者は子どもの小学校でPTA会長を務めているが、7月に京都市のまん延防止等重点措置が終了した後に、PTA主催の花火観賞会を行った。多くの来場者があり、子どもたちの歓声が久しぶりに響く夜となった。事後アンケートでは、多くの保護者が「コロナで子どもたちの経験の幅が狭まっている」と考えていることが明らかになった(73名中54名が回答)。

 しかしながら、この問題は個人としての保護者ではなんともしがたいものである。車を所持し、山奥まで運転し、キャンプテントを張れる、時間とお金とスキルのある保護者はそう多くない。多くの保護者は、自宅でスマホやタブレットの画面を見つめる我が子を見つめているのが現状であろう(我が家も同様である)。

 コロナ禍で「本当にこれでいいのか?」という自問自答が、保護者へのストレスとなってのしかかっている。ここで注意したいのは、子育ては自己責任ではないということだ。前回の記事で提起したように、公教育としての学校は、親義務の延長にあると考えることができる。つまり、親は一人では子どもを育てられないし、育てるべきではないということだ。本論も、子どもたちへ課された夏休みの宿題に頭を悩ませる保護者の皆さんの一助になればという願いで執筆する。

コロナ禍での夏休みコロナ禍での夏休み

子どもの疑問を手のひらに乗せて

 「自由研究」は日常の中から非日常の扉を開けてくれる存在である。いくつかの種類の「自由研究」は全国コンクールに紐付けされているが、今回はこうした序列からは自由な発想で自由研究をとらえたい。「自由研究」であるにも関わらず、実質的には競わされているというのは矛盾があるからである。また、夏休み後の学校での展示会での「見栄え」も保護者にとっては気になるところだが、今回はそれも気にしない。あくまでも子どもの疑問に根差した「自由研究」をやろうというのが本論の趣旨である。

 子どもの会話によく耳を澄ませていれば、子どもは一日にいくつもの疑問を発している。たとえば先ほど、筆者の長男(中2)は夕飯を食べながら「タコ足配線からタコ足っていけるんやろうか?」とつぶやいた。ちょうど子ども部屋の模様替えをしているので、配線を考えていたのだろう。そこで、「さあねぇ」と会話を終わらせることもできるが、「よくそんなことに気がついたね! それ、どうやって考えればいいんだろう?」と応答してみた。

 多くの場合、子どもの疑問は生活の中で生まれては消えていく。この泡のような疑問を、そっと手のひらに乗せて、観察可能な状態へ持っていくのが保護者の役割である。タコ足配線の話に戻ると、理科で習った配線図が頭に浮かぶが、電気に関する諸法則をすっかり忘れてしまっていた。タコ足にタコ足は、やらない方がいいというのは感覚的にはわかる。でも、なぜダメなのかを人にわかるように説明できるだろうか。こんなところにも、自由研究の芽は隠れている。その芽を育てていけば大樹になるかもしれない。

思考と表現のテンプレート化にあらがって

 現在、日本各地の教育現場には、子どもたちの発言方法や作文方法に、統一的なやり方(「スタンダード」)が進出している。たとえば、授業中に手を挙げた子どもは、教師に当てられた場合、立ち上がり、椅子を机の中に納め、それからやっと発言が許されるといったようにである。この場合、その動作をやることに一生懸命になり、肝心の発言を忘れてしまう場合もある。また発言するとしても「◯◯さんと一緒です」とだけ言って、着席する場合も多い。たとえ「◯◯さんと一緒」だとしても、何がどのように一致したのかは述べられていない。

 その他にも、ハンドサインの多用も見られる。グー、チョキ、パーをそれぞれ「賛成、同じです」「反対です」「つけたします」に割り振り、それを授業中に掲げるのである。教室の前方の壁は、発話やハンドサインのルールが大きく書かれた紙がたくさん貼ってある。

 こうしたテンプレート的な発話の教育現場への浸透はいつ頃から進んでいったのだろうか。

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