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大坂なおみを消耗させた「ミックス・ゾーン取材」の功罪

東京五輪で繰り返された拝金取材主義

小田光康 明治大学ソーシャル・コミュニケーション研究所所長

 あなたが、世界的に有名なテニス選手であるとしよう。聖火最終ランナーとして東京五輪の開幕を飾った。いまや日本という国を背負う五輪選手の代表だ。メディアや国民からは自国開催の大会で、金メダル獲得を当然視されている。自分自身にとてつもない重圧がのしかかっている。

 五輪のテニス・コートに立ち、格下の選手と対戦する。どうにも調子が出ない。徐々に追い詰められていく。国民の期待を裏切ってしまうかもしれない。必死になってプレイに集中すれど、気持ちが乗らない。気付くと試合が終わっていた。ストレート負けを喫した。自責の念に駆られる。

 強い選手であればあるほど、試合に負ければ精神的に不安定になる。コートを離れ、控え室に向かおうとする。その途中、コートの片隅にミックス・ゾーンが数カ所ある。試合直後の選手に簡単なインタビューをする場所だ。テレビのレポーターや新聞の記者が大勢群がる。

「うつの状態に悩まされている」と告白した大坂なおみ選手 lev radin/Shutterstock.com「うつの状態に悩まされている」と告白した大坂なおみ選手 lev radin/Shutterstock.com

試合後の選手を待ち構える質問地獄

 敗因について容赦ない質問を浴びせられるのは百も承知だ。だが、心の準備をしようにも、まだ敗北を受け入れられる心理状況ではない。心が落ち着かない。でも、前に進むしかない。

 まずはメディアを代表して国際オリンピック委員会(IOC)の放送部門、オリンピック放送機構(OBS)のインタビューだ。レポーターがマイクを突き出して、いきなりぶしつけな質問を投げかけられる。「なぜ、負けたのですか、こんな大切な試合でいとも簡単に」

 屈辱的な負け戦直後、頭の中が混乱して言葉にならない。「すみません、私の実力不足でした。応援してくれていたのにごめんなさい」。将来の放送権収入に気をもむIOCに向かって謝罪を繰り返す。10分間、懺悔し続けた。ようやくインタビューが終わり、控室に向かおうとする。

 数歩足の位置をずらすと、次の取材陣が待ち構えている。息つく暇もなく次のインタビューが始まる。巨額の放送権料を支払っている「ライツ・ホルダー(権利所有者)」と呼ばれるテレビ局だ。ここでも同じ質問が飛んでくる。「なぜ、負けたのですか。こんな大切な試合でいとも簡単に」

 試合内容を振り返り、悔しさがこみあげてくる。そして、それを謙虚に受け止める。ただ、繰り返しの質問に疑問を抱く。気を取り直して、マイクに向かってこう答える。「すみません、私の実力不足でした。応援してくれていたのにごめんなさい」。視聴率を気にするレポーターに向かって謝罪を繰り返す。

 コートを後にして競技場の屋内に向かって少し進む。冷静さは徐々に取り戻せた。すると、今度は海外プレスの記者が今か今かと待ちわびている。いきなり、こんな質問が飛んでくる。「なぜ、負けたのですか。こんな大切な試合でいとも簡単に」。もうこれで同じ質問は3回目だ。

 心がざわつく。いい加減にしてくれと叫びそうな自分を必死に押さえる。神妙な面持ちで「すみません、私の実力不足でした。応援してくれていたのにごめんなさい」。取材内容によって報酬額が決まる記者に向かって謝罪を繰り返す。

 心が壊れていくのをぐっとこらる。この場から一刻も早く逃避しないと。こう思いつつも、次は団子状になった国内メディアの記者がボイスレコーダーを差し出して待ち構えている。すべて私が悪い。徹底的に否定されて然るべきだ。人格はことごとく破壊され、無感覚に陥る。

 記者の質問で我に返る。「なぜ、負けたのですか。こんな大切な試合でいとも簡単に」。この頃にはすでに心は折れている。無機質な表情で機械的にこう回答する。「すみません、私の実力不足でした。応援してくれていたのにごめんなさい」。五輪特需を期待するメディア幹部に向かって謝罪を繰り返す。

 心身共に疲労困憊した状況で控え室に向かう。そしてその後、今度は記者会見が待ち構えている。そしてまた、同じ質問が繰り返される。「なぜ、負けたのですか。こんな大切な試合でいとも簡単に」と。

大坂なおみ選手はなぜ「義務」を無視したのか

 スポーツ界ではいま、選手へのマスコミの取材方法が問題となっている。それを象徴したのが今回の東京五輪でのミックス・ゾーンでの取材様式だ。競技や出場選手によってミックス・ゾーン取材の方法論は異なるが、おおむね先に記したのが特徴的な東京五輪時の取材風景だ。本稿では国内メディアのミックス・ゾーン取材に焦点を当てて、この問題を論じていきたい。

 女子テニスの大坂なおみ選手が五輪開幕前の今年5月、全仏オープン出場時に記者会見を拒否した。こうしたメジャー大会では通常、選手は記者会見での取材対応は義務づけられている。

 大坂選手は以前、自身のTwitterに「アスリートの心の健康状態が無視されている」と、記者からの否定的、あるいは無節操な質問が選手の心理状況を悪化させると訴えていた。

全仏オープンを棄権する意向を表明した大坂なおみのツイート=大坂のTwitterアカウントから全仏オープンを棄権する意向を表明した大坂なおみのツイート=大坂のTwitterアカウントから

 今回の東京五輪でも、競泳女子の米国代表のシモーネ・マヌエル選手が、負け試合直後は精神的かつ感情的に疲弊していることを理由に、メディアへの取材対応を強制されるべきでないと訴えた。

 マヌエル選手は自身のTwitterに、「自分たちの魂を全て人々にさらけ出す義務はない。気持ちを消化する時間を取れていないアスリートに対し、負けた直後にインタビューをするのはやめてほしい」と投稿した。

 こうした選手の訴えに対して、多くの国内外の記者らは記者会見という取材方法は適切だと主張する。試合に勝った時の取材対応で問題となることはあまりない。問題は負けた直後の取材対応である。選手を精神的に追い込むことになりかねない。

標的はミックス・ゾーンで語られる「本音」

 大坂選手とマヌエル選手の発言からは取材対応がミックス・ゾーンなのか、記者会見場なのかは判然としない。一般的に、試合後に選手はミックス・ゾーンを通過する必要はあるが、インタビューに応じる義務はない。ただし、至近距離で待ち構えるメディアの脇を素通りするには相当な覚悟と、心理的なプレッシャーを強いられることは確かだ。

 東京五輪では大坂選手は勝った1回戦ではミックス・ゾーンでOBS、海外プレス、そして国内メディアと一通りの取材対応をしていた。また、負けた3回戦ではいったんは素通りしてものの、関係者に説得されて引き返し、ミックス・ゾーン取材に応じていた。

 確かに、ミックス・ゾーンは五輪などスポーツのメディア・イベントの大きな役割を担っている。そこには論理よりも情動から発せられる選手の言葉があるからだ。試合直後のこの言葉がドラマを生み出す。これが「スポーツの力」を紡ぎ出していることは間違いない。

 「今まで生きてた中で、一番幸せです」と語ったバルセロナ五輪で競泳女子200メートル平泳ぎの金メダリスト、岩崎恭子選手。「ちょー気持ちいい」と言い放ったアテネ五輪男子平泳ぎ100メートルの金メダリスト、北島康介選手。ミックス・ゾーンでの選手の名言を挙げたらきりが無いほどだ。

 ただし今回の東京五輪では、このミックス・ゾーンの取材方法には疑問が残る。例えば、

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