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【51】「大いなる田舎」名古屋が語る防災の知恵

「お国自慢」を通して、これからの日本を考える

福和伸夫 名古屋大学減災連携研究センター教授

わが地元、名古屋を自慢する

 少しお国自慢をしたいと思う。

 日本の真ん中に位置する名古屋は、東京と大阪に挟まれ、「大いなる田舎」と揶揄されるが、自動車産業などの製造業は日本の産業を支える大黒柱である。

名古屋市庁舎(右)と愛知県庁(左奥)。いずれも国の重要文化財に指定されている

 名古屋は熱田台地を中心に栄えてきた。南端にある熱田神宮は1900年以上の歴史を持ち、三種の神器の一つ草薙剣を祀っている。源頼朝の生母・由良御前は熱田神宮大宮司の娘で、頼朝の生地は熱田だとの説もある。そして台地の北端には名古屋城がある。

濃尾平野の北にそびえる金華山。山頂に岐阜城がある=岐阜市
 西に濃尾平野が、東には丘陵地が広がる。濃尾平野の西には養老山地が、北には岐阜城のある金華山があり、東には東部丘陵を介して猿投山がある。養老山地の下には第一級の活断層の養老断層が存在し、この断層が繰り返し地震を起こすことで、西が上昇して養老山地ができ、東側が沈降して濃尾平野ができた。濃尾平野は西ほど低く、南西に海抜ゼロメートル地帯が広がる。これを濃尾傾動地塊と呼ぶ。

 養老断層は、745年に天平地震を、1586年に天正地震を起こした。天正地震は、飛騨と養老のダブル地震だと考えられており、著名な戦国武将も命を落とした。この地震は、後に述べるように「清須越し」の遠因にもなっている。

 木曽三川は、濃尾平野で最も低い西側を流れ、繰り返す氾濫が肥沃な地を作った。周辺には輪中地帯を形成してきたが、多くの河川が存在するため、東海道で唯一、熱田の宮の渡しから桑名まで海路による「七里の渡し」となった。この場所で甚大な高潮被害を出したのが1959年伊勢湾台風であり、これを契機に、1961年に災害対策基本法が制定された。

名古屋城は、なぜ大地震に耐えたのか

戦前の名古屋城本丸天守閣。南西方向から眺めた石垣が堀から直接立ち上がる姿が最も優美とされた=1936年撮影
 「名古屋は城で持つ」と言われたように、名古屋城は、1945年5月に空襲で焼け落ちるまで、300年余にわたって名古屋のシンボルであった。

 この間、1707年宝永地震、1854年安政東海地震、1944年昭和東南海地震の3度の南海トラフ地震と、直下地震の1891年濃尾地震をくぐりぬけてきた。城郭内に現存する帝冠様式の愛知県本庁舎と名古屋市本庁舎も、1944年東南海地震を見事に乗り越え、現在は重要文化財に指定されている。

 名古屋城が度重なる地震で大きな被害を受けなかった原因には、1610年に徳川家康が命じた「高台移転」があったと考えられる。尾張の中心を清須から名古屋に移した「清須越し」である。被災を減じるための大規模事業であった。

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