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パラリンピックの感動を行動に移そう! そこに真のレガシーが築かれる

東京2020大会後に私たちがすべきこと

土橋喜人 宇都宮大学客員教授・スーダン障害者教育支援の会副代表理事

4人に1人が注目した東京パラリンピック2020

 2021年8月24日から9月5日にかけて催された東京パラリンピック2020が閉幕した。

 参加者・地域で過去2番目(1番目は2012年ロンドン大会)の規模であり、日本選手団も過去最大規模の参加で、メダル数もアテネ大会に次ぐ51個(金13、銀15、銅23)の獲得数であった。過去の大会ではメディアの露出は多くなかったが、今大会は地元開催ということもあって、連日、パラアスリート達の活躍ぶりが報道された。

 日本国民の注目の度合いを知る指標はテレビの視聴率になるであろうが、NHK総合の開会式の視聴率が23.8%であり、手話付きEテレの2.1%を含めると約26%と、国民の4人に1人は注目し、感動を共にしていたことになる。閉会式も20.6%の視聴率であった。共同通信社による世論調査でも開催されて「よかった」は69.8%であった(注1)

障害者が仕事を持ち、自家用車に乗っている~1964年大会の衝撃

 この注目や感動がどのような契機になりえるのだろうか。

 1964年の東京パラリンピックは、障害者が社会に出ていくきっかけになったと言われている。大勢の海外からの障害者を目の当たりにして、更にその障害者たちが普通に生活を送っていることにも、健常者も障害者も衝撃を受けた。日本選手はほとんどが施設生活を送っていた時に、海外の選手は普通に仕事を持ち、自家用車に乗っていたのである(注2)

拡大国際身体障害者スポーツ大会東京大会(パラリンピック東京大会)第一部国際大会の開会式が1964年11月8日、東京・代々木選手村の織田フィールドで開かれた。写真は、にこやかに開会式を迎えたイギリスの女子選手たち

 実際に少しずつ社会の障害者観が変わり、障害者の社会進出が進み、環境面も変わっていった。日本では施設でしか生活できなかった障害者が地域で生きるための自立生活運動や、その普通の生活を実現するために外出できるようアクセス運動が生まれていった(注3)。また各都市で整備要綱や福祉のまちづくり条例が制定されていった。中央政府も公共建築物や公共交通施設の整備のために法律を整え、現在の改正バリアフリー法に至っている。他の様々な制度等も整備されていることは以前の論座の論考にも書いた(注4)

 しかしこうした取り組みとは裏腹に、現在も相模原市の津久井やまゆり園での殺傷事件や旧優生保護法の問題、日常的にある公共交通機関における乗車拒否等の差別問題、国民意識の中の健常者と障害者の間にある溝等はまだ根強く残っている。例えば内閣府の世論調査(注5)では「障害を理由とする差別や偏見がある」との回答が84%であった。日常の中でいえば、例えば公共交通の優先席、多機能トイレ、専用駐車場、専用(優先)エレベータ等々の市民の日常にも関係することで、適切な利用がされていない場面が多く存在している。


筆者

土橋喜人

土橋喜人(どばし・よしと) 宇都宮大学客員教授・スーダン障害者教育支援の会副代表理事

札幌市出身。国際基督教大学(ICU)教養学部卒業。民間銀行、青年海外協力隊を経て、JETROアジア経済研究所開発スクール(IDEAS)および英国マンチェスター大学開発政策大学院(IDPM)修士課程を修了後、特殊法人国際協力銀行(JBIC)および独立行政法人国際協力機構(JICA)にて正規職員として勤務。2020年に宇都宮大学大学院工学研究科博士後期課程(システム創成工学専攻)を修了。博士(工学)。現在、都内の複数の大学の非常勤講師を兼務。 【Facebook】土橋喜人【Twitter】Yoshito Dobashi, @tomasidobby

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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