暴力団首領への死刑判決を死刑制度の存在意義から考える
2021年09月19日
2021年8月、暴力団工藤会の首領である野村会長に、福岡地裁は死刑判決を下した。この判決は、いくつかの点で画期的なものであった。第一は、暴力団のトップに対する初めての死刑判決であることである。これまで伝統的に、警察も裁判所も、暴力団に対して、どこか「遠慮」がある風で、その撲滅や厳罰については慎重であった。そこが変化したというわけである。第二は、直接犯行に及んでいない暴力団のトップに責任を負わせるには、共犯(共同正犯)の証拠が必要であり、厳密な証拠が求められる刑事裁判において、これは乗り越えられない壁であったが、解釈変更したことである。これは、見様によっては、判例変更というよりも、暴力団を一気に撲滅するための政策的な配慮が背景にあるという話である。以上の2点については、幾つもの解説が為されており、私は、その説明に特に異論はない。そこは置いておいて、本稿で私が論じたいのは、死刑制度の意義という観点からみてみると、この判決は何を意味しているのかということである。
死刑が制度としては存在している国が、死刑を喜び勇んで積極的に執行しているわけではない。一旦死刑と確定したが、様子を見て執行を免れさすことが多用されている国もあれば、恩赦を使うことも可能である。日本の場合も、検事である法務省刑事局総務課長が起案し法務大臣が許可の署名をしなければ執行されないという最終関門があるなど工夫されている。確定後の再審制度も機能している。死刑確定判決の数と執行数を比較すれば執行数が少なくなっているのが実態である。今回注目したいのは、その前段階である。過去の刑事裁判を振り返れば、第一審で死刑判決がでたものの、その後の被告人の悔悛の状況を認めて最高裁で死刑を免じたパターンがあることである。一審判決直後、野村被告は、「後悔するぞ」と言ったという。およそ反省しているとは見えない様子であったが、今後、工藤会の解散を指示し、高裁判決のさいには反省の弁を述べ、最高裁で無期刑になるシナリオが実現するか注目すべきである。
日本における古来の文化パターンとしては、まず罪人を厳しく責めるが、反省を促し、悔悛を認めて赦す。近代になって、西洋にならって刑事司法制度を作ったが、その運用は日本的で、刑罰は極めて軽いし、犯罪者の更生には力を入れ、他の先進国とは比較にならない成功を収めている。ところがどうも、今回は、その成功パターンにならないと予測される状況にある。
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