2021年09月20日
「え、どこに帰ったらいいかって、それは、コロナ前の生活に帰ることに決まっているだろう。」と、そんなふうに思っておられますか? 私もコロナ前のように自由に旅ができるように戻れればいいなと思います。しかし、その半面、なんだか、そこに帰ることでいいのだろうかとの恐怖感にもかられます。
どこに帰ったらいいのか?
この問いをコロナ禍の中考えると私には、夏目漱石が浮かんでくるのです。私が海外に出る30年ほど前の話ですが、海外に住むなら東西に長けていた漱石に生き方を学ぼうと探っているうちに漱石の作品をほとんど読んでしまいました。今回は、漱石が、今、コロナ禍の中で生きていたら、きっと「ここに帰れ」と私どもにいうのでないかと思えてきたことをお分かちしたいと思います。
より早く、より便利で、より都会化にと、私ども人間は、産業革命以来250年もこの欲望を追求してきました。
もう100年も前に、この生き方に疑問をもったのが、漱石でした。日本が西洋に追いつこうとまっしぐらに資本主義を追求して進んできたことを漱石は、
「人間の不安は、科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれた事がない。徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから、航空船、それから、飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。」――『行人』
と憂いました。しかし、漱石の言う「休ませてくれない」に、今回のコロナは、ストップをかけました。
これまでにも、漱石のように真摯に疑問を投げかけた先輩達はたくさんいましたが、このスピードを止めたものはいなかった。
コロナは、地球上に住むすべての人間に、より早く、より便利で、より都会化の追求を止めて、我々人間の生き方を問うています。この「止めた時間」でコロナは産業革命からの人類が進んできた時間に、疑問を投げかけているのではないでしょうか。
我々は、またそこに帰ってもいいのでしょうか?
皆さんは、以下の有名な禅の公案、知っていますか?
「父母未生以前における、本来の面目は、如何?」
これを簡単にいうと「おまえの父と母が生まれる前の、本来の自分は一体なんなのか?」との問いです。
漱石が病弱で神経をわずらい命に不安をもった28歳の時、道を求めて鎌倉の円覚寺を訪ね、釈宗演から問われたのがこの問いだったそうです。皆さんだったらどう答えますか?
ちょっと深くこの問いに入って考えてみましょう。
父と母の生まれる前というと、おじいちゃん、おばあちゃん、もっと前の私の祖先から来たという、家族の血縁ということでしょうか? 確かに自分の生がこの世にあるのは、祖先のお蔭であると感謝の気持ちが出てきます。先祖のお蔭で私があり、そこが私達の帰るところだから「先祖に感謝しなさい」と、私を含めたお坊さんがよく言ってきた説教です。
だが、もっと深く入っていくと、日本人という民族にあたります。ですが、民族を答えにしてここで探求をやめるのは、大変危険なことだとコロナの出現後、強く私には、感じられます。それは、ここでとどまると、民族主義を助長し、優勢劣勢主義に導く可能性が出てくるからです。
では、さらに掘り下げてみると、どうでしょうか? 今、生きている我々人間は、皆アフリカからきたのだ。それも、同じホモサピエンスだ。なるほど、白人であれ、黒人であれ、アジア人であれ、肌の色は違っているが、同じところからきたのだ。人間、差別はない。これが本来の自分ではないか。しかし、この答えではまだ、間に合わないように思いませんか? 人間中心主義にとどまることになりませんか?
漱石は、さらにもっと深くこの問いに入って答えを探したように思います。彼は『門』で、その答えを探求しましたが、答えは見つかりませんでした。そして、最後の作品『明暗』で、その答えをだそうとしていたように私には読めますが、作品を完成させることなく、漱石はこの世を去りました。
しかし、幾人かのお弟子さんに『明暗』の構想を打ち明けていました。「ようやく自分もこの頃一つのそういった境地に出た。「則天去私」と自分ではよんでいるが、他の人がもっと他の言葉で言い表してもいるだろう……今度の『明暗』なんぞはそんな態度で書いているが、自分は近いうちにこういう態度でもって新しい本当の文学論を大学あたりで講じてみたい」(漱石の談話──松岡譲『漱石先生』より)
この漱石の談話からわかるように、私は、「父母未生以前における、本来の面目は、如何?」、それは「則天去私」であると漱石は、答えを出したのだと思うのです。
「則天去私」とは、何ぞや?
「則天」とは、「天命、大自然に従って生きる境地」と捉えます。「去私」とは、血縁を超え、民族主義を超え、そして人間中心主義さえも超えることと私は捉えます。この生き方こそが本来の自分であると漱石は言っているのではないでしょうか。
未完の『明暗』では、エゴとエゴのぶつかり合う煩わしい人間関係を描いていますが、漱石が、私どもの前に未完としてこの作品を残したということは、エゴを超える境地を我々に探りなさいと、特にこのコロナ禍の今、一人一人に宿題を残していったと思えてなりません。
芭蕉の有名な俳句「古池や 蛙飛びこむ 水の音」は一説によると「父母未生以前における、本来の面目は、如何?」の答えだったと言われています。
今から100年前、漱石と同時代に、産業革命の起こったイギリス、オックスフォード大学で芭蕉の講義をしていた人に野口米次郎という人がいます。野口米次郎は、アメリカで有名な芸術家イサムノグチの父です。野口は、以下のように、芭蕉の俳句を英訳しました。
“The old pond!
A frog leapt into
List, the water sound!”
私は、この英訳を見てはっとしました。「List」とは、古語で、今の言葉では「listen」「聞け」とのことです。それも意識的に耳をすましてちゃんと「聴け」というような意味だそうです。
この訳がすごいと思う理由は、私には、産業革命後、人間中心主義で、より早く、より便利で、より都会化にと追求する当時の最先進国イギリスで「人間中心の生き方ではだめなんだよ。意識を自然に向けて、自然に聴いて生活するところに変わって、そこに帰って生き直しなさい。」と訴えているように聞こえてくるからです。
どうでしょうか。これは、野口が芭蕉を通して詩なる芸術で「則天去私」を発見した訳と言えないでしょうか。
私たちは、古からの大自然の音に対して、本当に耳を傾けてきたのかと、この俳句が問うているように聴こえてきませんか?
最近、坂本龍一のインタビュー記事「パンデミックでも音楽は存在してきた新しい方法で適応を」を読み、彼から、コロナ禍の中で「どこに帰ったらいいのか」を教えられました。「自然の方が人間の親分で、人間は自然の
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