小笠原博毅(おがさわら・ひろき) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授
1968年東京生まれ。専門はカルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「レガシー」作りに付き合わず、とやかく言い続けること
「東京オリンピックは起こらなかった」、とは言わないし、言うつもりもない。その手の言語テロリズムはもはや時代遅れでもあり、もしジョークだとしても、もう面白くはない。もし「起こらなかった」ものとして東京2020という出来事を語ろうとするならば、むしろそれはIOC(国際オリンピック委員会)を支配者とするオリンピック勢力に利する物語にしかならないだろう。
なぜなら、新聞報道を中心に徐々に明らかになりつつも、「関連経費」という看板によっておそらく最後まで詳細はわからないだろうオリンピック経費の内訳と、巨額の税収が赤字補てんに当てられる現実を前にして、これだけの物理的負担の代償は? という疑念を抱かせないためにも、「起こらなかった」ほうがいいからだ。コロナ禍でも「競技をさせてくれ!」と、反対論に正面から対峙する覚悟を見せたアスリートが体操の内村航平以外1人も現れなかった現実を突きつけられて、結局オリンピアン/パラリンピアンは特権的で例外的に守られているという印象によって、オリンピックに参加することのみならずスポーツすることの意義と価値が根本から問い直されてしまい、スポーツを興行として既得権益化してきた勢力への醒めた視線が注がれてしまうくらいなら、いっそ「起こらなかった」ことにしたほうがいいからだ。
「こんなオリンピックをしていいのか」と悩んだり、逡巡したり、オリンピックの価値自体に疑問を抱いてしまったアスリートなどいなかったことにしたほうが、オリンピズムは綿々と受け継がれることになる。
だから、不都合だらけの出来事として東京2020は確実に起こったと言わなければならない。しかしこう言った途端に、2013年の東京招致決定以来展開してきた反オリンピックの活動が、「失敗」したということを認めざるを得ないことになる。
社会運動や批評言論活動に「失敗」も「成功」もないというのも一つの見識ではあるだろう。各種の世論調査では最大8割の国民がオリンピックの再延期か中止を求めたというし、メディア的に著名な「識者」たちの訴えたオンライン署名が45万人以上も集まったのだから、反オリンピックと国民意識が協調できたのだという言い方もできなくはないだろう。
だがそれはオリンピックの価値とIOCによる統治を批判する継続的な運動や言論活動によってではなく、コロナウイルスの脅威への不安と警戒からであり、「やっぱりいらない」のだと継続的に訴えてきたことが「あった」のだから、訴えてきたことが実現しなかったことを認めなくてはならない。1年の延期の間に開催反対/再延期へと舵を切った人々の見解もまた、大多数がこの東京大会に限った判断だったようにしか見受けられなかった。