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[中]オリンピック/パラリンピックの「多様性」がはらむ選別のシステム

称賛すべき「いい話」として消費してはならない

小笠原博毅 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

 前稿では、東京オリンピック/パラリンピックは終わっていないと書いた。大会自体は閉幕したが、あまりにも多くの矛盾や取り返しのつかない爪痕を、「レガシー」などというお為ごかしで洗い流させてはいけない。本稿では、マスメディアやSNSで称賛のインフレを起こした「多様性」という言葉がいかに選別的なものか、人間本来の多様性をいかに破壊しているのかを検証する。

「多様性」の見世物と化しているパラリンピック

パラリンピック東京大会閉会式では「躍動する多様な生命」を表現したというパフォーマンスが披露された=2021年9月5日、国立競技場拡大パラリンピック東京大会閉会式では、「躍動する多様な生命」を表現したというパフォーマンスが披露された=2021年9月5日、国立競技場

 批判的な装いをまとった「前向き」な思考が模索するその対象は、「多様性」であり「スポーツの力」である。そしてこのような抽象的な言い方に回収されるべくして物語化された、会場や選手村や選手の出身地や家庭や、指導者やライバルや同僚たちとの関係の中で起こった、たくさんの「いい話」たちである。

 数々のスキャンダラスな出来事の余韻が収まらぬうちに無観客という条件で始まったオリンピックに比べて、注目と期待がパラリンピックへと集まったことは否定できない。マスメディアがこだわる日本のメダル獲得数ではオリンピックに遠く及ばなかったが、NHKを中心とした実況放送と多様な関連番組の放映によって、パラリンピックとパラリンピアンのメディア的な存在感はおおいに増すこととなった。

 オリンピックには「?」を付けても、その後のパラリンピックには共感できたという人がまず口にする言葉が、「多様性」だ。同時に、健常者が主役のオリンピックを批判できても、障がい者がそれぞれのクラスに分かれて競技するパラリンピックを批判しにくいと感じる理由もまた、「多様性」である。健常者よりも競技参加へのハードルが高く機会も限られている障がい者の晴れ舞台を批判するなんて、「多様性」を否定する差別なのではないかという誹(そし)りを受けるかもしれないというモラル・ハザードが働くからである。

 パラリンピックを批判することは差別とは全く関係がない。パラリンピックの統括団体であるIPC(国際パラリンピック委員会)はIOC(国際オリンピック委員会)と取り結んだ連携協定によってIOCからの資金援助を保証され、2000年のシドニー大会以降オリンピック開催と同都市でオリンピックの後に競技施設等を共有して開催することになっている。

 パラリンピックはオリンピックと同じ過程と仕組みで招致に名乗りを上げ、招致活動をし、予算が組まれ、運営実施される。競技役員や補助員、介助者、伴走者など、複雑な障がいのクラス分けにも関連して競技に実質的に携わる役割は多種に及ぶが、健常者と対置した限りでの身体的/精神的ハンディキャップをハンディキャップではなく個性として認め、「まるでオリンピアンのように」競技する舞台装置の組み立て方はオリンピックと同じなのだ。


筆者

小笠原博毅

小笠原博毅(おがさわら・ひろき) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

1968年東京生まれ。専門はカルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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