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[中]オリンピック/パラリンピックの「多様性」がはらむ選別のシステム

称賛すべき「いい話」として消費してはならない

小笠原博毅 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

「多様性」とは誰にとっての何のことなのか

 もっと冷静に考え、理解しようとしてもいいのではないか。パラリンピアンが、健常者との対比において障がいとともに競技するアスリートという意味で「多様性」を体現するのであれば、パラリンピアンの範疇における「多様性」のほうがよほど「多様」であることは明白だろう。

 そもそも、誰が観ても同質的で統一された「障がい者」という一貫したカテゴリーがあるのではなく、福祉の観点から社会的な保護を受ける権利がある人たちということなのだから、その内実は文字通り「多様」であって当たり前だ。

 もしも「障がいがあるのにこんなにがんばっているんだから」とパラリンピアンに声援を送り、それゆえにオリンピアンの姿よりも「感動」するのであれば、それは日常生活空間で出会う障がい者に「同情」することと何が違うのだろうか。「同情」が全面的に悪いと言っているのではない。たとえ最初は上から目線の感情から始まったとしても、非障がい者によるその後の理解や「共生」につながるのであれば結果としてありだという見識もあるかもしれないからだ。

 しかしその時、障がいという「多様性」はあくまでも他者の、自分以外の誰かの問題として消費される対象になってはいないだろうか。その日限り、その場限り、オリンピック/パラリンピックという例外的な状況限りの称賛すべき「いい話」として消費されてはいないか。

 選別的に消費されるアスリートはオリンピアンも同じことだ。「飛び込み王子」こと英代表のトーマス・デーリーが競技の待ち時間に編み物をする姿は、金メダル獲得後の「僕はゲイで金メダリストだ」という発言と相まって、強烈なアイデンティティ政治をほのぼのさでコーティングすることによって、セクシュアル・マイノリティーが素顔のままでいられるオリンピックという神話を作り上げた。オリンピックにも「多様性」に寛容ないい場面、いい話があるじゃないかという、オリンピックの消極的肯定論に追い風が吹いた瞬間である。

 しかしそれが話の半分にも満たないことは、

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筆者

小笠原博毅

小笠原博毅(おがさわら・ひろき) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

1968年東京生まれ。専門はカルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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