「レガシー」などいらない。東京大会の記憶に依存しないスポーツと社会の関係を作ろう
2021年09月29日
[中]オリンピック/パラリンピックの「多様性」がはらむ選別のシステム
前稿では、オリンピック/パラリンピックを通じて称揚された「多様性」とは、結局IOC(国際オリンピック委員会)の決めたフォーマットに収まる程度のものでしかなく、むしろ人間本来の「多様性」を抑圧する言葉だということを論じた。最終回の本稿では、スキャンダルまみれだった東京大会の最後の砦として繰り返し現れた、「スポーツの力」について考察する。
コロナによってオリンピック開催に対して否定的な見解を持つ人は「感情的」になっているだけで、「開催したらきっと成功を喜ぶだろう」とディック・パウンドIOC委員(加)は言ったという。実に植民地主義的な傲慢さもさることながら、アスリートたちがメディアに登場するたびに繰り返された「スポーツの力」なる言葉。いろいろ問題は山積みだが、必死にトレーニングし結果を残そうとするアスリートの努力と姿勢は本物だ、嘘はないという大合唱によって「オリンピックはやってよかった」という合意ができていたとしたら、パウンドの予言は見事に成就したように見えただろう。
しかし限られた数ではあるが、オリンピックで競技すべきかどうかの逡巡と悩みを赤裸々に語るアスリートの姿によって、一体このオリンピックは誰のために開かれているのかと多くが疑問を抱くようになったことも確かだった。
「スポーツの力」とは極めて抽象的な言葉である。「やっぱりスポーツの祭典としてのオリンピックは素晴らしいですね」では、矛盾や不都合をスポーツによってなかったことにする「スポーツ・ウォッシュ」になってしまう。一体何がどうなったらスポーツが力を発揮したと言えるのだろうか。
現在公開中のスパイク・リー監督『アメリカン・ユートピア』は、トーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンによるブロードウェイでのパフォーマンスの映像作品だが、そのクライマックスは警察の暴力によって命を落とした人々の名を連呼するジャネール・モネイのプロテストソング「ヘル・ユー・トーンバウト(何おかしなこと言ってんだ)」のシーンだろう。数えられただけでも12人の名前が叫ばれ、トレイヴォン・マーティンからジョージ・フロイドまで写真が映し出される。BLM(ブラック・ライヴス・マター)運動の象徴的なチャントである。
ミュージシャンであるバーンがこれをやっても、もはや誰も「音楽に政治を持ち込むな」とは言わないだろう。バーン自身のリベラリストとしての歴史を知っていようがいまいが、またそれを支持しようがすまいが、ミュージシャンが社会的争点をパフォーマンス上で採り上げ、ある種の議題喚起をすることはもはや普通のことだ。小説家しかり、役者しかり、芸術家しかり、である。
ところが、2020年の全米オープンテニスで大坂なおみが
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