小笠原博毅(おがさわら・ひろき) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授
1968年東京生まれ。専門はカルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「レガシー」などいらない。東京大会の記憶に依存しないスポーツと社会の関係を作ろう
[中]オリンピック/パラリンピックの「多様性」がはらむ選別のシステム
前稿では、オリンピック/パラリンピックを通じて称揚された「多様性」とは、結局IOC(国際オリンピック委員会)の決めたフォーマットに収まる程度のものでしかなく、むしろ人間本来の「多様性」を抑圧する言葉だということを論じた。最終回の本稿では、スキャンダルまみれだった東京大会の最後の砦として繰り返し現れた、「スポーツの力」について考察する。
コロナによってオリンピック開催に対して否定的な見解を持つ人は「感情的」になっているだけで、「開催したらきっと成功を喜ぶだろう」とディック・パウンドIOC委員(加)は言ったという。実に植民地主義的な傲慢さもさることながら、アスリートたちがメディアに登場するたびに繰り返された「スポーツの力」なる言葉。いろいろ問題は山積みだが、必死にトレーニングし結果を残そうとするアスリートの努力と姿勢は本物だ、嘘はないという大合唱によって「オリンピックはやってよかった」という合意ができていたとしたら、パウンドの予言は見事に成就したように見えただろう。
しかし限られた数ではあるが、オリンピックで競技すべきかどうかの逡巡と悩みを赤裸々に語るアスリートの姿によって、一体このオリンピックは誰のために開かれているのかと多くが疑問を抱くようになったことも確かだった。
「スポーツの力」とは極めて抽象的な言葉である。「やっぱりスポーツの祭典としてのオリンピックは素晴らしいですね」では、矛盾や不都合をスポーツによってなかったことにする「スポーツ・ウォッシュ」になってしまう。一体何がどうなったらスポーツが力を発揮したと言えるのだろうか。