西郷南海子(さいごうみなこ) 教育学者
1987年生まれ。日本学術振興会特別研究員(PD)。神奈川県鎌倉市育ち、京都市在住。京都大学に通いながら3人の子どもを出産し、博士号(教育学)を取得。現在、地元の公立小学校のPTA会長4期目。単著に『デューイと「生活としての芸術」―戦間期アメリカの教育哲学と実践』(京都大学学術出版会)。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
主権者教育は、教育全体の問題である
突然だが、次の文章を見てほしい。
有権者に対する実際の投票者の比率は今では約二分の一である。[…]投票の有効性に関する懐疑論は公然と表明されており、それは知識人の理論の中にだけではなく、下層大衆のことばの中にも現われてくる。「私が投票するかしないかということで、どういう違いが現われるのか。いずれにせよ、事態はまったく同じに動いているのだ」
これはいつ、どこで書かれた文章か。国政選挙の投票率がほぼ50%前後というと、今の日本について書かれたようにも思えるが、実はこれは1927年にアメリカの哲学者ジョン・デューイ(1859~1952)が書いた文章である(『公衆とその諸問題』)。約100年前のアメリカでも、今の日本と同じような問題を抱えていたのである。もちろん、当時のアメリカでは黒人には選挙権が認められていないなど、単純な日米の比較はできないが、すでに「投票の有効性」が揺らいでいるのは共通している。
投票率が低ければ、少ない人数で多数に関わる物事を決めることになり、その正当性が問われる。一方で、投票率の下限が設けられない限り、どんなに低投票率の選挙も選挙としては有効である。さらに、何らかの義務化によってなされる投票は、別の角度から正当性を疑われることになるだろう。オーストラリアなど棄権に罰金を課す国も存在するが、そのような投票は「有権者」の「権利としての投票」とは異なる要素を持っているように見える。こうしたジレンマが、選挙を中心とした間接民主主義につきまとっている。