2021年10月08日
私にとって、横綱・白鵬は「鎮」の人だった。
2011年3月11日、東日本大震災が発生し、わが故郷の宮城県気仙沼市は甚大な被害を受けた。奇しくも、この日は白鵬の26歳の誕生日だった。
この震災では、私の姉夫婦が行方不明となり(姉は2011年9月に身元確認が出来たが、義兄は未だ行方不明のままだ)、2011年は個人的にも動乱の年として記憶されている。
落ちつかない時期であった2011年6月6日。白鵬は気仙沼のお隣、南三陸町に赴き、志津川中学校で土俵入りを行った。
当時の志津川中学校の校長を務めていた菅原貞芳氏は、私の中学3年時の英語の担当だったこともあり、白鵬の土俵入りの様子を私に教えてくれた。
「四股を踏んで、まるで大地を鎮めているようだったよ」
後に、私は雑誌のモノクログラビアでその時の土俵入りの様子を見たが、白鵬は神々しく、まさに怒れる大地を鎮める人にふさわしい存在に思えた。
四股には、大地の邪悪な霊を踏み鎮めるという宗教的な意味があるとされている。
科学が発達した現代においても、横綱の土俵入り、そして歌舞伎の市川團十郎家に伝わる「にらみ」には、邪悪なこと、禍々しいことを収める力があるように感じる。
相撲がスポーツの範疇に収まらないのは、そうした儀礼的な要素や、芸能に込められた宗教的な意味合いが込められているからだと思っている。
白鵬は横綱として、わが故郷を鎮めにやってきてくれたのだ。
10年前の時点で、白鵬は土俵にも安定をもたらす存在だった。
白鵬がモンゴルから来日したのは、2000年のこと。当初は体が小さく、なかなか入門が決まらなかったほどだったが、順調に番付を上げていき、2004年1月場所で十両、5月場所では新入幕を果たす。
そして2006年の5月場所で白鵬は大関に昇進し、新大関で優勝。21歳4か月での初優勝は、貴乃花、大鵬、北の湖に次ぐ4番目の若さだった。
その一方で、翌年の2007年から大相撲は激動の時代を迎える。
1月には圧倒的な強さを誇っていた朝青龍の八百長疑惑が報道される。その不穏な空気が漂う中で、7月場所に白鵬は横綱に昇進を果たす。
朝青龍と白鵬の時代の到来である。
2008年は白鵬が4回の優勝、朝青龍が1回、2009年は白鵬3回、朝青龍2回と、白鵬が朝青龍を凌駕するようになっていく。
そして2010年の1月場所では朝青龍が25度目の優勝を飾ったが、2月には引退してしまう。時代は白鵬の一強時代に入っていくが、2011年には野球賭博問題が発覚し、3月場所は中止になるなど、角界は揺れに揺れた。
この時期、白鵬の果たした役割は極めて大きかった。本場所が戻ってきた2011年5月場所では優勝して2010年3月場所からの7連覇を達成。その翌月に南三陸町で土俵入りを行ったわけだ。この時期の慰問活動は特筆されてしかるべきだ。
2012年11月場所で日馬富士が横綱に昇進するまで、白鵬はひとり、淡々と横綱の責務を果たした。
白鵬は横綱に昇進してから、「鎮める」人そのものだった。
先輩横綱である朝青龍は、土俵内外で「やんちゃ」ぶりを発揮し、従来の横綱のイメージから大きく逸脱した。だからこそ、白鵬には伝統的な横綱像が期待され、鎮める人としての役割を期待された。
土俵にあっては奇策に走ることなく、相手の形になったとしても、横綱がそれを凌駕する。強さと品格の両立。白鵬はまさに大横綱になるにふさわしい器の持ち主であると思われた。
ところが──。
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