除斥期間、主権免除……原告に立ちはだかるいくつもの壁
2021年10月27日
10月14日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を被告とする裁判の口頭弁論が、東京地裁(五十嵐章裕裁判長)で開かれた。原告の脱北者5人は、在日朝鮮人らの帰国事業(帰還事業)に参加して北朝鮮に渡り、その数十年後に北朝鮮を脱出(脱北)して日本に戻った。北朝鮮政府(代表者・金正恩国務委員会委員長)に対し、総額5億円の損害賠償を求めている。
原告代理人の福田健治弁護士は意見陳述のはじめに「今日は歴史的な裁判の日。日本の法廷で初めて、北朝鮮政府が被告となり、その人権侵害の一端が審理される」と語った。
法廷は午前から夕方まで開かれたが、被告席は空席のままだった。裁判で被告側が出廷せず、書類も提出しないまま法廷が開かれること自体は、それほど珍しいことではない。ただ今回は、北朝鮮政府を被告とした裁判であることが、きわめて異例だった。
裁判を起こしたのは、東京都在住の川崎栄子さんら男女5人。いずれも1960~70年代に北朝鮮に渡り、2001~03年に脱北した。川崎さんにとっては、この裁判にたどりつくまでにいくつもの試行錯誤があった。
17歳の高校3年生だった1960年、帰国事業に参加し北朝鮮へ。その後、脱北して2004年、44年ぶりに日本に戻った。2015年、日本弁護士連合会に人権救済を申し立てた。2018年2月にはオランダ・ハーグの国際刑事裁判所(ICC)検察官に対し、北朝鮮の金正恩氏と在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の許宗萬議長を処罰に向けて捜査するよう求める申立書を提出した。しかしICCは、根拠条約「ローマ規程」が2002年に発効する前の事件は対象外だとして、申し立てを受理しなかった。
2018年4月、米国で起こされた裁判が川崎さんを勇気づけた。北朝鮮で拘束され、解放された後に死亡した米国人大学生オットー・ワームビアさんの遺族が北朝鮮政府を相手取り賠償を求めて起こした訴訟だ。米ワシントンの連邦地裁は2018年12月、約5億ドル(約550億円)を遺族に支払うよう北朝鮮政府に命じた。
川崎さんは10月14日、口頭弁論後の記者会見で「北朝鮮では、いつ命をとられるかという恐怖のなかで四十数年を過ごした。いつか日本に帰って、北朝鮮の人権侵害を法律で裁きたいと願ってきた。今回やっと正義の天秤に北朝鮮を載せることができた」と感無量な面持ちだった。
訴状によると原告らは、北朝鮮が「地上の楽園」だとする「虚偽の宣伝」をして呼びかけた帰国事業に参加し、北朝鮮に渡航した。その後、北朝鮮は十分な食糧を提供せず、抵抗する者を弾圧し、出国を認めないなど、原告らの基本的人権を抑圧しており「北朝鮮による国家誘拐行為」にあたると主張。さらに原告らは脱北後も、北朝鮮に残された家族の出国が妨害され、面会交流できない状況にあるとも訴えている。
原告5人は10月14日の法廷で尋問に臨んだ。日本人配偶者として在日朝鮮人の夫と渡航した斎藤博子さんは渡航前に朝鮮総連から「家も仕事も用意されており、何の心配もない」との説明を受けたという。しかし現実はまったく違っていたといい「地上の楽園と聞いていたが、地獄だった。だまされた」と涙ながらに訴えた。食料難で夫を失い、子どもは今も北朝鮮に残ったままだという。家族で渡航した高政美さんは、最初の脱北に失敗して中国から北朝鮮に連れ戻された際、気絶するまで殴られるなどの拷問を受けたと語った。榊原洋子さんや石川学さんは、北朝鮮で絶望のあまり父や姉が精神を病んだと述べた。
原告には「時の壁」が立ちはだかっている。民法には時効に加えて、不法行為から20年がたつと損害賠償を求める権利が消える「除斥期間」のハードルがある。1959年に始まり、在日朝鮮人や日本人家族ら約9万3千人が新潟港から北朝鮮に渡った帰国事業は1984年に終了し、すでに40年近く過ぎている。これまでにも脱北者らにより、日本で帰国事業を推進した朝鮮総連を相手取った訴訟が提起されたが、いずれも時効や除斥期間を理由に敗訴していた。
今回の提訴にあたって原告側は、帰国事業にかかわった日本政府や赤十字、朝鮮総連などを相手に提訴しても、北朝鮮渡航後に原告との関係が途切れたと判断されれば、時効や除斥期間の壁を越えるのは困難と考えた。今回、北朝鮮政府を被告にしたことで、「帰国事業による渡航から脱北まで、北朝鮮からの出国や日本への帰還を許さなかった行為が継続しており、北朝鮮政府による一体の不法行為で一連の被害が続いたと立証できれば、除斥期間の問題もクリアできる」と原告側はみている。
2018年8月の提訴から、今年10月に第1回口頭弁論が開かれるまで3年かかったのは、コロナ禍で裁判の休廷や延期が相次いだことだけが理由ではない。そもそも北朝鮮政府を被告とする裁判が、日本の裁判所で開けるのかという「管轄権」の問題も横たわっていた。「主権国家は他国の裁判権に服さない」という国際慣習法上の「主権免除」の原則が適用されると裁判所が判断すれば、訴訟は中身の審理に入ることなく却下、つまり門前払いされる可能性もあったからだ。
原告側は日本政府が2010年に施行した「対外国民事裁判権法」の国会審議に注目した。2009年4月16日の参議院法務委員会で小川敏夫参院議員が「わが国は北朝鮮や台湾に関しては主権を認めないという前提に立つのか」と質問。当時の倉吉敬・法務省民事局長は「未承認国に対して民事裁判権の免除を認めるべき法的義務はない。国家として承認していないから、主権免除の対象にならないので、日本の裁判所に裁判を起こせるということになる」と答弁している。
原告側はこうした政府答弁や研究者の学説などをもとに、「日本が国家承認していない北朝鮮には民事裁判権が及ぶ」と主張した。
訴状を受理した東京地裁は、提訴以来6回、非公開で原告側と協議した。北朝鮮とは国交がなく、政府を正式に代表する機関も日本国内にない。地裁は今年8月16日、訴状や準備書面など関係書類の送付先がないことを前提に、裁判所の掲示板に書類を一定期間貼り出すことで被告側に届いたとみなす「公示送達」を実施。10月の第1回口頭弁論では、原告5人に対する本人尋問と、帰国事業の歴史に詳しい専門家として高柳俊男・法政大教授に対する証人尋問を認めた。
高柳教授は
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