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J1歴代最多191ゴール、希代のストライカー大久保嘉人が遺した記録と記憶

増島みどり スポーツライター

ピッチ同様‘喜怒哀楽’あふれた引退会見

 J1リーグ史上最多となる191ゴール、前人未踏の3年連続得点王(13年~15年)を獲得した大久保嘉人(39=C大阪)は、引退発表会見(11月22日、大阪市内)の冒頭「大久保嘉人は……」と切り出したところで言葉に詰まり、泣き出してしまった。

引退会見で、時折涙で言葉を詰まらせながら思いを語ったセレッソ大阪の大久保嘉人=2021年11月22日、大阪市
 「引退する」と、その単語を口にしてしまうと、本当に全てが終ってしまう。決断はしたが、ボールに触れない日がやって来る怖さ、寂しさが一気にこみ上げて来たのかもしれない。

 ホテルの会見場は静まり返り、ようやく次のフレーズ「今シーズンをもって引退します」と振り絞るまで、まるで子どものような無防備さで鼻をすする音だけがマイクを通して響いていた。

決断は5日前、誰にも相談せず―「まだまだできると言われるうちに」

 誰にも相談せず、引退を決断したのも会見のわずか5日前の17日。来季の契約にほぼ合意していたチーム関係者たちも、驚くほどだった。理由をこう説明する。

 「自分自身、まだまだできるだろうと言われるうちにやめたいという気持ちもあった。それが今だ、と思った」

今季、古巣のセレッソ大阪に15年ぶりに戻った大久保。先制点を奪って雄たけびを上げた=2021年3月3日
セレッソ大阪でプロ3年目を迎えた2003年はリーグ戦で16ゴールと飛躍を遂げた。写真は同年4月の浦和戦でのゴール

 今季15年ぶりにプロのキャリアをスタートさせた古巣C大阪に復帰。開幕戦でいきなりゴールを奪うと、5試合で5得点の快進撃を見せ、最大の目標でもあった通算200得点に順調に前進しているように見えた。

 自分にしか見えない景色があり、感覚があるからこれだけのゴールを奪えたのだとすれば、引退の決断にも、自身にしか分からない理由があり、感覚があったに違いない。

2013年から3年連続でJ1得点王に輝いた大久保。写真は2013年の表彰式=12月10日、横浜アリーナ

W杯南アフリカ大会アジア3次予選のタイ戦で、勝ち越しゴールを決めて喜ぶ大久保=2008年2月6日、埼玉スタジアム

警告最多・退場2位――審判とのバトルの果ての称賛

 最多記録はゴールだけではない。

 通算警告数は104枚と歴代最多で、退場数もストイコビッチ(名古屋在籍時)の13回に続くワースト2位の12回。「やんちゃ坊主」「暴れん坊」と、ピッチでの様子を評された。

 会見では、「審判の皆様には迷惑をかけました。そこは謝りたいです。もうサッカー選手ではなくなりますが、(今後も)レッドカードはもらわないようにしたい」とユーモアを交えて謝罪し、場内を笑いに包みこんだ。

今季限りの現役引退を報告するセレッソ大阪の大久保。涙の後、笑顔を見せた=2021年11月22日、大阪市

「キミの動きだけ読めなかったよ。まだまだできると思うけれど」

 大久保にこんな話を聞いた。

 引退を発表した後の試合中、ある審判が「本当に引退しちゃうの?」と、声をかけこう言った。

 「Jリーグの選手で、キミの動きだけはスピードがあって、独特で読めなかったよ。だから、審判に入ると付いて行くのに必死だった。今年見ていて、まだまだできると思うけれど……」

 審判に対し、「ボケ! どこ見てる?」と食ってかかり、暴言でカードを受けた回数も1度や2度ではない。Jリーグ初ゴールをあげた01年4月14日の記念すべき磐田戦も、実はゴール後、退場した。

 しかし、「迷惑をかけた」審判から動きを絶賛され、「まだできる」と言われる。バトルを展開し、謝罪しなければと考えていた審判からのまさかの賛辞に「なんだかすごく嬉しかったですね」と照れた。

セレッソ大阪でともにピッチに立った大久保(右)と森島寛晃(現セレッソ大阪代表取締役)=2004年4月17日

愛された「大久保スタイル」

 号泣で始まった会見だったが、途中、記者から指導者やサッカーでの目標を前提に、「これから目指すのは?」と問われ、「ゴルフの90切りですね」と答え大きな笑いを起こし、クラブに入った時から憧れていた、C大阪のレジェンドでもある森島寛晃代表取締役(49)に花束をもらうと喜んだ。1時間半の会見には様々な感情が率直に表現され、ピッチ同様に「大久保スタイル」が貫かれているようだった。

 そのスタイルこそ、国見高校時代から優等生ではなく、ピッチでは感情を爆発させ、体格でも決して恵まれてはいなかったストライカーが、国内外のファンに、時にはカードを出した審判にまで、鮮やかな記憶を刻み、愛された理由だったのだろう。

ガンバ大阪戦で決勝ゴールを決め川崎のサポーターと喜びあう大久保(13)=2014年4月26日、等々力競技場
天皇杯決勝で鹿島に敗れ、試合後にサポーターにあいさつする川崎の大久保=2017年1月1日

逆算のストライカー 考え抜いて作りあげたゴールまでの設計図

第79回全国高等学校サッカー選手権決勝の草津東戦でシュートを決め喜ぶ国見の大久保。大会8得点で得点王に輝いた。この年度、インターハイ、国体、選手権で優勝し高校三冠を達成した=2001年1月8日、国立競技場
 93年にスタートしたJリーグの歴代得点ランキングトップの191ゴールは、2位・佐藤寿人(昨年、ジェフユナイテッド千葉で現役引退)の161点に30点の差を付けている圧倒的な数字だ。

 身長170㌢と小柄で、「C大阪に入った時は、プロではそう長くできないだろうと思っていた。プロ入り前に試合を寮で見ながら、先生(小嶺忠敏、当時国見高校サッカー部監督)に、『お前、こんなレベルの高いところでやれる?』と言われ、無理だろうなぁと笑っていたのを思い出す」とよく話している。

「野性的カン」と言われてきたが実は正反対

 それが39歳までキャリア20年、リーグ歴代最多得点だけではなく、W杯に2大会出場し、Aマッチ60試合と、日本を代表するストライカーに。メディアにもファンにも、野性的カン、独特の嗅覚と言われていたが、得点の「極意」は、これらと正反対の信念にあった。

 「大久保嘉人っていうイメージは野性的、と言われてきましたけど、やっぱりゴールを取るために確率を求めていましたし、自分はもともとストライカーではなく中盤の選手だったので、パスの出し手の気持ちとか狙いがよく分かる。だから、ゴールまでを常に逆算して、逆算して点を取った。実は考えていましたと、選手のときには言わなかったけど、今はそれを伝えたい」

 引退会見という公の場で、初めてこう明かした。

W杯南アフリカ大会で大久保は日本代表の全4試合に先発出場した。写真はデンマーク戦での遠藤(中央)、本田(右)と大久保=2010年6月24日、南アフリカ・ルステンブルク

マジョルカのデビュー戦で衝撃の活躍―FWに魅了された

 どうしてそこにいたの?と人々を驚かす瞬間も、実はすべて逆算し、設計図を持ってたどり着いたチャンス。逆算の設計図通りに決まった忘れられない会心のゴールは、05年、スペイン1部のマジョルカに移籍して迎えたデビュー戦での初得点 加えて1アシストだったという。

スペイン1部リーグのベティス戦で激しくボールを奪い合うマジョルカの大久保=2005年5月29日
 その時、FWの仕事に改めて魅了されたのだと、かつて聞いた。

 「当時は日本からの選手など期待もされていなかったし、むしろなぜ日本人を獲得したんだ、と批判の的。それがあの1ゴール1アシストで全てを変えられた。店に入ると、みんなに絶賛される。99%の不安と1%の自信。試合中は、ひたすら自分と戦わなければならないキツさはあるけれど、FWはおもしろい。生まれ変わっても絶対FWになりたい」

 嗅覚やカンといった不確定な要素ではなく、徹底した確率を求めて逆算の設計図を描く。積み重ねたゴールの背景を思うと、どれほど繊細な準備が必要であったか分かる。周囲は「まだできる」と、衰えぬフィジカル面を指摘する。しかし引退会見で「細い糸がギリギリ繋がっているようだった」と吐露した姿に、フィジカル以上にメンタルを維持する難しさがにじんだ。

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