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「平和の祭典」の大義を果たそうとしないIOC~北京冬季五輪の外交ボイコット問題(上)

人権問題よりスポンサーにご執心のバッハ会長

小田光康 明治大学ソーシャル・コミュニケーション研究所所長

五輪の政治利用に手立てを尽くさなかったIOC

 五輪の大会開催や参加の是非をめぐってこれまで、これまで幾度となく、様々な形態で政治問題化してきた。そのもっとも深刻な問題が戦争による大会中止であった。近代五輪で初めて中止されたのは1916年のベルリン大会だった。第一次世界大戦で欧州が戦火に包まれた。戦争による五輪の大会中止はその後も繰り返されてきた。日中戦争の影響で、東京は1940年夏季大会の開催地を返上した。いったんはヘルシンキに変更になったが、これも第二次世界大戦に巻き込まれて中止となった。

 当時は夏季大会と冬季大会は同じ年に開催されていた。冬季大会開催が決定していた札幌が返上した後、スイスのサンモリッツに変更された。ここではスキー競技の導入をめぐってIOCと開催都市が対立してしまった。このため、ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンに再変更されたが、結局は第二次世界大戦で中止となった。

 第二次世界大戦の影響は1944年に予定されたロンドン夏季大会とイタリアのコルティーナ・ダンペッツオ冬季大会も中止に追い込んだのである。人の命を危険にさらしてまで五輪を開催する意味などない。戦争による大会中止は当然だろう。

 五輪は世界平和の祭典といわれる。こうした過去の苦々しい経験をIOCはどう活かしているのだろうか、五輪に戦争を食い止める力があるのだろうか。この一例として国連による「スポーツとオリンピックの理想を通じた平和でより良い世界の構築」、通称オリンピック休戦決議がある。1994年のリレハンメル冬季大会以降、国連は五輪開催のたびにこの決議を採択してきた。ただし、この決議の主体は国連であり、IOCではない。

 今夏開催された東京大会にも国連に加盟する193カ国中186カ国が共同提案して、この決議が採択された。来年2月の北京冬季五輪でも同様に173カ国が共同提案して採択された。ただし、中国のウイグル族の人権問題を重視した日本や米国、オーストラリアとインドなどはこれに加わらなかった。これが現在進行形の「外交ボイコット」問題につながっている。

北京冬季五輪に抗議する声明を発表する中国の少数民族や民主活動家の人たち=2021年2月4日、東京都千代田区の日本外国特派員協会拡大北京冬季五輪に抗議する声明を発表する中国の少数民族や民主活動家の人たち=2021年2月4日、東京都千代田区の日本外国特派員協会

 大会中止にまでは至らなくとも、代表選手派遣のボイコットも繰り返されてきた。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、米国が1980年モスクワ大会のボイコットを決定した。これには日本を含む西側諸国約50カ国がこれに同調した。当時、この問題に深く関わった日本体育協会の国際担当幹部、伊藤公氏によれば、米国のジミー・カーター大統領が大平正芳首相に直接電話をかけてきて、不参加への圧力をかけた。

 ただし、選手団派遣のボイコットは国の政府ではなく、その国・地域のオリンピック委員会(NOC)が決定する。日本の場合は日本オリンピック委員会(JOC)が政府の圧力に屈して、ボイコットに追い込まれた。一方、英国では政府の意向に反してイギリス・オリンピック委員会(BOA)は代表選手団の大会参加に踏み切った。モスクワ五輪閉会式で大会マスコットであったこぐまのミーシャが涙を浮かべて登場したのが印象的だった。この問題は後を引きずった。西側諸国のモスクワ大会ボイコットに対する報復として、ソ連や東ドイツ、キューバなど東側十数カ国が1984年のロサンゼルス大会をボイコットした。

 このモスクワ大会ボイコット問題の内幕については、かつて筆者が編集長をつとめたライブドア・PJニュースに伊藤氏ご自身が詳細にわたって連載した。政府関係者からの圧力で、ある出版社がお蔵入りにした伊藤氏の書き下ろし原稿だった。この経緯については拙著『パブリック・ジャーナリスト宣言。』(朝日新聞出版)に綴った。また、この連載を下地にまとめた日本体育大学の松瀬学教授による『五輪ボイコット—幻のモスクワ、28年目の証言』(新潮社)に詳しい。

 日本オリンピック委員会(JOC)はモスクワ・オリンピック国別参加申し込み(ナショナル・エントリー)締め切り日の1980年5月24日午後、東京・渋谷の岸記念体育会館で臨時総会を開き、柴田勝治委員長が「現状では参加は不可能。不参加もやむを得ない」との委員長見解を出し、これを挙手で採決して賛成29、反対13で不参加を決めた。 拡大 日本オリンピック委員会(JOC)はモスクワ・オリンピック国別参加申し込み(ナショナル・エントリー)締め切り日の1980年5月24日午後、東京・渋谷の岸記念体育会館で臨時総会を開き、柴田勝治委員長が「現状では参加は不可能。不参加もやむを得ない」との委員長見解を出し、これを挙手で採決して賛成29、反対13で不参加を決めた。

 また、代表選手団が開会式の入場行進や国旗・国歌の使用を拒否するなどのボイコットもある。1980年モスクワ大会では英国やフランスの選手は開会式の行進に参加せず、自国の国旗・国歌も使用を控えた。

 このほかにも五輪を舞台にした政治的な対立構造はあり続けてきた。1968年のメキシコシティ大会ではアフリカ系の米国選手が、表彰台で拳を突き上げ黒人差別に抗議したところ、IOCは失格にしてメダルを剥奪した。1972年のミュンヘン大会では選手村でパレスチナのテロ組織がイスラエル選手11人を殺害した事件が起こった。

 外交使節団を派遣しない今回の五輪の外交ボイコット問題はこれらの延長線上にある。過去の大会でも同様の外交問題がたびたび持ち上がった。2008年北京夏季大会ではチベットでの人権弾圧問題で欧州議会はEU首脳に五輪開会式への出席を見送るよう呼びかけた。2014年のソチ冬季大会では開催国ロシアの人権政策に抗議して、米国やドイツ、フランスの首脳が開会式に出席しなかった。

 このように、五輪には政治的な対立構造が常について回った。そして、

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筆者

小田光康

小田光康(おだ・みつやす) 明治大学ソーシャル・コミュニケーション研究所所長

1964年、東京生まれ。米ジョージア州立大学経営大学院修士課程修了、東京大学大学院人文社会系研究科社会情報学専攻修士課程修了、同大学院教育学研究科博士課程満期退学。専門はジャーナリズム教育論・メディア経営論、社会疫学。米Deloitte & Touche、米Bloomberg News、ライブドアPJニュースなどを経て現職。五輪専門メディアATR記者、東京農工大学国際家畜感染症センター参与研究員などを兼任。日本国内の会計不正事件の英文連載記事”Tainted Ledgers”で米New York州公認会計士協会賞とSilurian協会賞を受賞。著書に『スポーツ・ジャーナリストの仕事』(出版文化社)、『パブリック・ジャーナリスト宣言。』(朝日新聞社)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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