桜島大噴火、関東大震災、軽石漂着……歴史は語る
2022年01月01日
大正(1912~26年)から昭和初期にかけて、日本では、大噴火、高潮、スペインかぜ、大震災など多くの災禍が続いた。明治期に西洋文明を採り入れ、近代化する一方、戦争への道を突き進むことにもなったこの時代を、災害の面から振り返り、現代を考える参考にしたい。
1912年、高知県の室戸岬に上陸した強い台風により661人の死者が出た。世界に目を向けると、この年、ドイツの気象・地球物理学者、A・L・ウェゲナー(1880~1930)は、同国内で行われた地質学会で「大陸移動説」を発表した。
ウェゲナーの発見は、アフリカ東岸と南アメリカ西岸の地形に着眼を得たものだった。その後、地質、化石などの連続性などを分析し、かつて、パンゲアという超大陸があり、それが分離して現在の大陸ができたと主張し、1915年には、その成果を「大陸と海洋の起源」にまとめた。しかし、大陸移動の駆動力を説明できなかったため、当時の学界には受け入れられなかった。だが、実はこれは、その後の「プレートテクトニクス理論」や地震発生メカニズムの解明につながる大発見で、日本との関わりも深い。
1960年代になって、海溝や海嶺の発見、地震の震源の分布、海底の帯状の地磁気の変化などが体系化された「プレートテクトニクス理論」により、ウェゲナーの学説は裏付けられた。この理論の確立によって、プレート運動によって地震の発生や火山の噴火が説明されることになった。日本周辺のプレート境界で起きるのが、関東地震や、南海トラフ地震、日本海溝沿いの地震である。
ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した1914年、日本では1月12日に鹿児島の桜島が大噴火した。
噴火が起きる前に地震や様々な異常現象があったにもかかわらず、混乱を避けるためだったのか、鹿児島測候所は「桜島に異常はない」という情報を出していた。それによって犠牲者も出た東桜島村は10年後、その教訓を刻んだ石碑を建立した。
そこには〈本島ノ爆發ハ古来歴史ニ照シ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ住民ハ理論ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トス 大正十三年一月 東櫻島村〉と記され、「科学不信の碑」とも呼ばれている。
1917年9月、東京湾台風で東京湾岸一帯が高潮災害を受けた。死者・行方不明者1324人、全壊家屋は5万戸弱で、1891年濃尾地震、1896年明治三陸地震に次ぐ大災害になった。低地が広く浸水し、行徳塩田を始め、東京湾の塩田が壊滅した。
1918年に第一次世界大戦は終結したが、大戦景気で潤っていた日本は戦後恐慌に苦しむことになる。1921年の11月には総理大臣、原敬が刺殺されるなど、国内外が不安定化する中で起きたのが、関東大震災である。
1923年9月1日11時58分、神奈川県西部を震源とするM7.9の地震が発生した。強い揺れによる建物倒壊や、地震火災、津波、土砂崩れなどで、約10万5千人が犠牲になった。そのうち、東京都が7万人、神奈川県が3万3千人を占める。
全潰家屋数は約11万棟。神奈川県で6万4千棟が全潰した。この数は、阪神・淡路大震災を上回る。
地震発生が昼食時で炊事のために火を使っていたこと、強風が吹いていたこと、家屋が密集していたことなどが災いした。当時空き地で多くの人が避難してきた陸軍被服廠跡(現在の墨田区)では持ち込まれた家財道具などに火が燃え移って「火災旋風」が起き、約3万8千人もの犠牲者を出した。
経済被害は当時の国家予算の3倍を超え、日本は国家存亡の危機を迎えた。
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