多くの災禍、科学への「不信」も
大正(1912~26年)から昭和初期にかけて、日本では、大噴火、高潮、スペインかぜ、大震災など多くの災禍が続いた。明治期に西洋文明を採り入れ、近代化する一方、戦争への道を突き進むことにもなったこの時代を、災害の面から振り返り、現代を考える参考にしたい。
1912年、高知県の室戸岬に上陸した強い台風により661人の死者が出た。世界に目を向けると、この年、ドイツの気象・地球物理学者、A・L・ウェゲナー(1880~1930)は、同国内で行われた地質学会で「大陸移動説」を発表した。
ウェゲナーの発見は、アフリカ東岸と南アメリカ西岸の地形に着眼を得たものだった。その後、地質、化石などの連続性などを分析し、かつて、パンゲアという超大陸があり、それが分離して現在の大陸ができたと主張し、1915年には、その成果を「大陸と海洋の起源」にまとめた。しかし、大陸移動の駆動力を説明できなかったため、当時の学界には受け入れられなかった。だが、実はこれは、その後の「プレートテクトニクス理論」や地震発生メカニズムの解明につながる大発見で、日本との関わりも深い。
1960年代になって、海溝や海嶺の発見、地震の震源の分布、海底の帯状の地磁気の変化などが体系化された「プレートテクトニクス理論」により、ウェゲナーの学説は裏付けられた。この理論の確立によって、プレート運動によって地震の発生や火山の噴火が説明されることになった。日本周辺のプレート境界で起きるのが、関東地震や、南海トラフ地震、日本海溝沿いの地震である。
ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した1914年、日本では1月12日に鹿児島の桜島が大噴火した。

桜島の大噴火(1914年)を撮影した絵はがき
この「大正桜島噴火」は20世紀における日本最大の噴火で、58名の死者を出した。噴火の2日前から何度も地震が起き、M7.1の地震も発生し、鹿児島市内で石垣や家屋が倒壊した。断続的に噴火が繰り返され、溶岩流が瀬戸海峡を埋め、桜島が大隅半島と陸続きになった。
噴火が起きる前に地震や様々な異常現象があったにもかかわらず、混乱を避けるためだったのか、鹿児島測候所は「桜島に異常はない」という情報を出していた。それによって犠牲者も出た東桜島村は10年後、その教訓を刻んだ石碑を建立した。
そこには〈本島ノ爆發ハ古来歴史ニ照シ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ住民ハ理論ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トス 大正十三年一月 東櫻島村〉と記され、「科学不信の碑」とも呼ばれている。