自由と公正を重んじ、信頼集めた言論人。折々に伝えてきた警句と希望とは
2022年02月01日
取材で世話になった人や社内の先輩が亡くなると思い出深い光景が走馬灯のようにめぐるが、外岡さんについては違う。折にふれてかけられた言葉が、ふとした瞬間によみがえるという稀有な経験をいまかみしめている。あらゆる分野の取材で完成度の高い記事を仕上げながら、震災や沖縄にこだわってきた外岡さんの鮮やかな軌跡を振り返る。
白い砂浜に、短い三つの影が落ちた。
二人は男、一人は女だ。
男たちは真っ白な麻のスーツに身を包み、パナマ帽を被っていた。ビーチパラソルを開き、男二人が水着になって海を眺めた。見ていたのは、海ではなかった。
一九四〇年七月、香港島。
二人の男の肩書は、日本の商社員だった。偽装である。
一人は神戸から、欧州行きの客船で香港に着いたばかりだ。大本営陸軍部作戦課大尉、瀬島龍三。二十八歳だった。
と同時に、未来を予見させる記事も手がけた。88年5月、最高裁が刑事公判に一般の市民が直接参加する「陪審・参審制度」の研究に着手した、と1面トップで報じ、外岡さんは解説記事で「国民の理解と信頼をかち得ようとする姿勢を一段と明確にした」ととらえた。私の記憶では、2009年から始まる裁判員裁判の導入を正面から取り上げた最初の記事だった。
後年、最高裁判決が及ぼす射程について自由な論評を認めようとしないとして、外岡さんは最高裁当局に批判的だったが、陪審制検討開始という歴史的記事の重みは変わらない。
2カ所目の横浜支局で、一度だけ支局長にほめられたという外岡さんの体験談を聞いたことがある。夏の高校野球で横浜高校が優勝し選手が地元に凱旋したとき、外岡さんが押し寄せる人の波から選手を守ろうとした「必死さ」を評価された。「事件では一度も抜いたことがありません。『きょう逮捕』なんて、どうやって書くんですかね」と言っていた。明晰さを求める外岡さんには、禅問答めいた刑事とのやり取りは不向きだったのだろう。
外岡さんより4年後に入社した私が初めて会ったのは86年、東京本社の学芸部だった。一世を風靡した日曜版の連載企画「世界 名画の旅」の取材班で海外に行っていた外岡さんと顔を合わせる機会は少なかったが、翌春、アルバイトをテーマにした連載記事を書いた私は社員食堂で同じテーブルになった外岡さんから声をかけられた。
「おもしろかったけど、性風俗のバイトをする女性の回ではなぜもっと突っ込んで聞かなかったの」と指摘された。フリーターという言葉が登場した頃のこと、紙面できわどいバイトの存在を示せればいいという安易な考えを見透かされていた。
昭和天皇が病に倒れた88年秋、社会部に移り代替わりの取材に組み込まれていた外岡さんから学芸部に電話がかかってきた。たまたま受けた私に、「皇室報道はこのままでいいんですか」と珍しく切迫した調子で投げかけてきた。
当時、放送担当として「崩御」後に民放がCMなしの特別編成にするという「公然の秘密」を書かないことを批判されたと受け止めた私が「どういう意味ですか」と聞き返すと、外岡さんが問題視したのは新聞紙面全体のあり方だった。連日、天皇の体調が細かく報じられ、歌舞音曲など様々なイベントが自粛で中止されていた。
断水した長田区で給水車の行列で順番を譲り合う中年女性2人が「生きているだけでありがたい」「ほんまやね」と交わした会話や全国から集まっているボランティアの若者について伝えると、外岡さんも甚大な被害を受けた中で人間が見せる希望を話したように思う。
外岡さんは被災地をくまなく歩き、「アエラ」で1月下旬から3カ月間、毎週、ルポを続けた。震災にはこだわり続け、のちに被災者の声を拾い震災があぶり出した日本のありようを記録した『地震と社会』(上下、みすず書房)などの著作にまとめられた。
2005年8月に長野総局員が総選挙をめぐる新党設立に絡み田中康夫・長野県知事に取材せずに書いた虚偽のメモの内容が記事となり懲戒解雇された。報道機関の信頼に関わる深刻な危機に、当時ヨーロッパ総局長だった外岡さんが東京本社のゼネラルエディター兼編集局長になったのは06年4月だった。
07年1月からば就職氷河期に世に出た「ロストジェネレーション」の連載に取り組み、4月には朝日新聞を軸に戦前の報道の責任を検証する長期連載「新聞と戦争」を始めた。戦時下の新聞の加害責任に触れると、90年代になってもOBから不満が出るのが常で、本格的な追及が行われていなかったが、外岡さんが「タブーは一切ありません」と前面に立ち実現した。
日々の紙面編集では締め切り時間が午後11時を回る朝刊の13版までは編集局長室で連日、陣頭指揮をとった。この間、アルコールを口にすることはなく、会社の近くに住まいを設けた。
07年3月、米英が主体の有志連合がイラクでの攻撃を始めてから4年になるのを機に、開戦時の報道と言論を検証する記事を、外岡さんから依頼された。全国紙5紙の論説責任者にインタビューすることになった。書面でのやり取りとなった日経以外は、それぞれ時間を割いてもらい、話を聞いた。
まわりくどい物言いをしない外岡さんのこの特集での指示は1~2分、大まかな紙面(大刷り)が出来上がったときも「結構です」と手短だった。他社のコメントが掲載された大刷りを見たあと、自らの正当性を強調するような修正を出してきた朝日の論説責任者には閉口した。
だが、外岡さんは07年9月末で編集局長から離れた。在職期間は1年半にすぎなかった。07年2月には富山県立山町の特産品についての報道で読売新聞の記事を盗用していたことが明らかになり、監督責任を問われ譴責処分を受けたとはいえ、編集部門全体の責任者になる見方も多かった。
編集委員となり、会社が希望退職者を募っていた11年3月には定年前に会社を去った。「親の介護のため」と伝わったが、上層部にも衝撃が走った、といわれる。
この本では「二〇二一年に中学・高校生になる世代の人々が東日本大震災を調べようとして、初めに手にとってくださる一冊になるように、との思いで書き始めました」と綴られている。10年後も古びない寿命の長い文章を書ける証しでもあるのだろう。
連日、朝刊と夕刊を発行する新聞の記事は、極端にいうと賞味期間が半日だ。その半日間に価値が極大化するような記事が新聞社にとっては歓迎される。流れに乗って書きまくる記者もいる。権力者や当局の中枢に密着して情報を取ってきて大きな記事を書く人もいれば、弱者の側に立っていることにナルシシズムを感じるかのような原稿を執筆する人もいる。
外岡さんはこうした類型的な記者群から離れ、特定の立場に固執することなく物事の本質を突き詰める姿勢に終始していた。それゆえに、震災や沖縄の問題を追い続けてきたのだ、と思う。大田昌秀・沖縄県知事の本音に迫る記事は、本土の新聞では出色だった。
深代惇郎を頂点に社内随一の書き手が担ってきた「天声人語」の最有力候補者として衆目が一致していた。「『長』と名のつくものをやったことがないのですよ」と本人が言っていたように、管理職はもちろんデスク(次長)も経験せず書き手一筋だったにもかかわらず、本人が辞退した、と伝わっている。
連日、行数の決まったコラムを書くよりも自由に執筆したいという意向だったともいわれている。退社後もフリーのジャーナリストとして健筆をふるい、小説も執筆した。
その中で耳目を引いた論考が、この「論座」で20年7月に掲載された「『賭けマージャン』問題 まず事実を明らかに」だった。
コロナ禍の緊急事態宣言下で東京高検検事長と朝日新聞社員らが賭けマージャンをしていた問題について編集幹部が書いた調査結果の文章について、「本記なき解説」あるいは「経過説明なき結論」と論評した。社員の「不適切な行為」のどの点をなぜ問題だと判断したのか不明なままだと指摘、「日ごろ、政府や企業、スポーツ団体の『不適切』な行為に対し、あれほど『説明責任』を問う新聞社が、自らが巻き込まれた際に率先して責務を果たさないのなら、読者の信頼はつなぎとめられない」
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