「東京から日本を変える」で陥った負のスパイラル
2022年02月11日
石原慎太郎氏はなぜ、「新銀行東京」に突っ込んでいったのだろう。巨費1400億円をつぎ込みながら経営難で18年には他行と統合し「消え」てしまった。銀行設立は、老政治家、石原氏が放った乾坤一擲のバクチだったのではないか。
「『2期目の目玉がない、とにかく全庁をあげて探せ!』と知事の命を受けたハマちゃん(浜渦武生元副知事)が尻をたたいていましてね。結局、『小玉』しか集まらず、新銀行構想が公約としてどんどん膨らんでいったんです」(元都幹部)
石原慎太郎氏が東京都知事として政界に返り咲いたのは1999年だった。1期目の石原氏は精彩を欠いた国会議員時代と打ってかわって「やる気」がみなぎって見えた。ディーゼル車の排ガス規制の導入や認証保育所制度、銀行税、米軍横田基地問題、羽田国際化などだ。
「石原新党」という国政復帰待望論も起こった。その機運をもりあげるためには、強く独創的な指導者として世間の耳目を引きつけ続けねばならない。
いざ2期目へ、となったとき、日ごろの「石原節」がネックになった。
「東京から日本を変える」「国がやらないから東京がやるんだ」
そう言ってきた以上、公約が並の知事が思いつくような代物ではダメだ。ところが、小ネタしか集まらない。冒頭の元都幹部が回想したとおり、石原氏が秘策として検討をすすめていた「新しい銀行」が現実のものとして急浮上した。
都による新銀行設立が石原都政の検討課題に浮上したのは1期目が後半に入った2001年夏だ。当時、社会をにぎわわせていた言葉は「貸し渋り・貸しはがし」。強引な融資姿勢が社会問題化し、どん底の日本経済の中で、銀行批判が怨嗟の域にまで達していた時期だった。
ずっと後だが、経営コンサルタント大前研一氏のコラムが話題になったことがあった。
《はじまりは石原知事との食事での会話だった。2001年8月27日のことである。私は「金融機関がバタバタ倒れる時世に、都の運用資金など日によっては9兆円にも達するお金を1000万円以上保証されない都市銀行に預けていていいのか。都が銀行をつくってはどうか」と提案したのである》
コラムによると、大塚俊郎出納長(当時)が後日やってきて、特命プロジェクトが立ち上がった。構想では、既存のすべての銀行に「東京都支店」を用意してもらう「バーチャル銀行」で、都の資金は都庁の一角にためておき、支払日がきたら本店からすべての銀行の都支店を経由して振り込むようにする、というのが骨子だったという。
ところが、石原氏が次第に、①大銀行にもできない中小企業の支援、②ベンチャーへの支援、その二つを推進していくと主張し始めたという。
《ベンチャー支援などは大企業でさえもできない。ましてや役人や政治家にその嗅覚があるとはとても思えない。(中略)だが、石原知事はどうしても、と強く主張した。そこまで言われてはということで、私はプロジェクトから2002年半ばに手を引いた》
大前氏の回想と、石原氏の発言、当時の社会状況、新銀行の設立過程を重ね合わせると興味深い。
「独自の金融機関を何らかの形で持たないと中小企業は救われないんじゃないか」
石原氏が定例会見で、都による銀行経営の可能性検討を明らかにしたのは2002年2月だった。この月、米格付け会社が日本の大手行の長期格付けを軒並み「財務内容が一段と悪化している」と引き下げを発表。4月に誕生したみずほ銀行でシステム障害が発生、市民生活を大混乱に陥れてもいた。
先述したとおり貸し渋り・貸しはがしへの批判もあった。世の中のモヤモヤ感をすくい取り、人心収攬にたけた石原氏が大前氏にヒントをえて、「国が長年できないでいる金融再生を東京発でやってみせる」と功名心をくすぐられたとしてもおかしくない政治・社会状況が眼前に広がっていた。
もう一つ、銀行税訴訟の東京地裁判決が翌月、2002年3月に迫っていたことも見逃せない。大手銀行を対象にした東京都の外形標準課税条例をめぐり18行が税金の返還などを求めた訴訟はこの時すでに敗色濃厚だった。
実際、直後の地裁判決は都の全面敗訴。石原氏は直後の会見で「かなり変わった裁判官だと聞いていた」と判決を批判。別の会見では矛先を内側に向け、「一審はやることをやっていないから負けた」「一審の途中で経過を報告させたら、(訴訟担当者が)尖った眼で私を恨めしそうに見上げてね」と、訴訟を担当した都法務部に責任を押しつける発言で物議を醸してもいる。
その後の2003年1月、態勢をかえて臨んだ高裁でも都側は負けた。
2期目をめざす知事選(2003年4月投開票)まで待ったなし。一、二審敗訴のマイナスを打ち消すかのように新銀行設立へのアクセルが踏み込まれていった。「目玉がない」とされた2期目の選挙公約はおのずと新銀行設立が柱になった。
結局、新銀行を前面に掲げた選挙で、石原氏は308万票を獲得、大勝した。選挙戦が、新銀行をもはや後戻りできない石原銘柄の大プロジェクトにまで押し上げてしまったのだ。
懸案の銀行税訴訟は再選後、2003年10月に和解。石原氏が都議会で述べた和解理由が「彼」らしい。
「銀行は今なお、膨大な不良債権を抱えており、(中略)今回の都の決断は、今日の日本の金融機関の体力が条例制定時の予測を遥かに超え、著しく低下していることを斟酌したものであります」
要するに、和解は銀行側の苦しい経営状況に配慮したと言ったのだ。石原氏の説明では、都が和解を申し入れたわけではなく、弁護士間の話し合いの中で自然発生的に歩み寄った結果だというが、私が都と大手行の双方から聞いた話では、和解の申し入れは都側からだった。裁判は水もの。理を捨て利に徹すれば、当期利益が大幅に改善する銀行としても悪い話ではなかったようだ。
そうして石原氏は辛うじてメンツを守った。銀行とのバトルが清算されたこの時、撤退の大義名分を力業でこしらえてでも、新銀行設立を止められなかったことが悔やまれる。
2004年2月、石原氏は都議会で胸をはってこう述べた。
「このたび新銀行東京の指針となるマスタープランを策定しました。(中略)優れた人材を各界から迎え、開業3年後に自己資本比率は邦銀トップクラスの13%をめざします」
役所のつくる基本計画は収益予想が甘くなりがちだが、石原氏が牽引したのだからそれはそれは勇ましくなった。
《3年後》総資産は1兆6000億円。100万件の預金口座、10店舗、自行ATM200台、融資・保証残高9300億円、業務利益161億円、経常利益54億円、経費率47・2%、貸倒引当率2・9%、外部格付は邦銀トップクラスのAAをめざす――とあった。
仮に実現していればしていたで、民業圧迫のそしりをうけていただろう壮大な計画。ただ、
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