日本の政治家の失言のメカニズムは容易に理解できる。ところが失言ではなく「暴言」となると、これはどうも心理学や精神分析の領域の話になる。
失言は、彼らの話す「公」の言葉がさっぱり機微に触れないことが背景だ。演説は大学の雄弁会の流れを汲んでか紋切り型、定型句、慣用句の羅列か、あるいは言質を取られぬ官僚話法「霞が関文学」の受け売りか、これでは有権者の歓心は買えない。
講演スピーチのハウツー本にも、ウケるためには個人的なエピソードが必須と書いてある。結婚式のスピーチ例集みたいなものだ。そこでモードを「私」に切り替えて、身内にしかしない「ぶっちゃけた話」「ここだけの話」をする。それは時に「危ない話」になる。危ない話はホンネを話してくれているからだと受け取る者たちは進んで共犯関係に飛び込む。本来は他人だった有権者が、これで身内=支持者になる仕組み。身内だから身内の話をするのではなく、身内の話をするから身内になるという逆転。
そして危ないことを言う方がウケるという成功体験が重なると、「女は産む機械」だの「(ナチス憲法の)手口に学べ」だの、はたまた金メダルにかじりついたりすることになる。まあ、中にはそれらが危ない、まずいとすら気づいていない場合もままあるが。
しかし石原慎太郎の場合はそれらとはやや違う。彼の発言は多く失言ではなく、世間でいう「暴言」に分類される。そんなことを言うと「危ない」「まずい」とされることを敢えて言って見せ、どこが危ないのか、何がまずいのかと反語として挑発し、既成概念(あるいは一般大衆の信じる常識、価値観)に「果敢に挑戦」という評価を得ることを目的としていた。

石原慎太郎氏(1932-2022)
うっかり喋った過失が、外に漏れて批判されるのではなく、敢えて外に聞こえるように発信する、確信犯としての故意の「暴言」だ。意識的な発言だからメディアはそれらを「〜〜節」と呼んだ。失言ではない常態として。
しかしそれらは、既成の価値観や権威の反転を図っているのではない。価値と権威とをそっくりそのまま自分にシフトさせるのが目的だ。それは小説家として出発した彼の初期の発言からすでに顕現している。