「論争」で構成されたドキュメンタリー、公開後に新たな「論争」
2022年02月14日
「事実は映画よりも奇なり」というべきか。
ドキュメンタリー映画「主戦場」は、慰安婦問題をめぐって対立する論者のインタビュー映像を並べ、観客の目の前であたかもバーチャルな「論争」が展開しているかのように再構成された作品だった。2時間余の映画が結末を迎えるころには、監督が考えた一定の「結論」が作品内で示される。
しかし映画公開後、こんどは映画の取材や製作方法をめぐる新たな「論争」が起こった。出演者が監督を相手取って提訴したのだ。映画の枠をはみ出したこのリアルな「論争」にはシナリオがなく、結末がどうなるかはまだだれにもわからない。一審判決は1月27日に東京地裁で言い渡され、監督側が勝訴したが、原告の出演者らは控訴の意向を示している。
日系米国人のミキ・デザキ監督は米フロリダ州出身。2007年に来日し、山梨や沖縄の中学や高校で英語指導助手をした際、日本には部落問題や在日コリアンなどの差別の問題があると知った。2014年、韓国人元慰安婦の証言を報道した植村隆・元朝日新聞記者が強い非難を浴びた問題がきっかけで、慰安婦問題に関心をもったという。
デザキ氏は、在学していた上智大学大学院の卒業制作のためとして、2016年から慰安婦問題について日米韓の30人以上にインタビューした。
ジャーナリストの櫻井よしこ氏や杉田水脈・衆議院議員ら、慰安婦の強制連行を否定する立場の人々に取材した一方、慰安婦問題に詳しい歴史学者の吉見義明・中央大学名誉教授や林博史・関東学院大学教授らからも話を聞いた。慰安婦の人数や強制連行の有無などの争点ごとに主張と反論を並べ、2時間余のドキュメンタリー作品にまとめた。
映画の題を「主戦場」と名付けたのは、慰安婦を象徴する少女像が建立されるのに反対する人たちが「米国こそ慰安婦論争の主戦場だ」と語るのを聞いたのがきっかけという。
2019年4月に一般公開され、国内約60カ所で上映されたほか、欧米の大学など国内外延べ50カ所以上で上映会が開かれた。
提訴した原告5人は、この映画の出演者だ。
米国弁護士でタレントのケント・ギルバート氏▽「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝副会長▽歴史問題を国連など国内外で主張するグループ「なでしこアクション」の山本優美子代表▽「テキサス親父」の愛称で動画での評論活動を行う米国人トニー・マラーノ氏▽マラーノ氏の活動を日本に紹介する「テキサス親父日本事務局」の藤木俊一氏。いずれも慰安婦の強制連行を否定する立場でインタビューに応じた。
映画の公開後、藤岡氏と藤木氏、山本氏らは2019年5月30日に記者会見して抗議声明を発表した。「学術研究だというから協力した。商業映画として一般公開するならインタビューは受けなかった。承諾なく出演させられた」と主張。
これに対しデザキ監督は6月3日に記者会見し「出演者は全員、『合意書』や『承諾書』に署名した。これらの書類には映画上映や販売を承諾する項目もあり、公開の可能性も知っていた」と反論した。
5人は6月19日、デザキ監督と映画配給会社「東風」を相手取り東京地裁に提訴。「事前の合意に反し、だまされて映画に出演させられた」などとして著作権や名誉権の侵害を主張した。
提訴は映画の上映にも影響を及ぼした。
「主戦場」は2019年秋、川崎市の「KAWASAKIしんゆり映画祭」で上映作品に選ばれた。NPO法人が主催して市民やボランティアが運営し、川崎市や市教委が共催。新百合ケ丘駅近くの「川崎市アートセンター」で開かれる市民映画祭だ。ところが市から主催者に「裁判になっているようなものを上映するのはどうか」と懸念が示されたため、上映がいったん中止された。
上映中止が報じられると、映画監督の白石和彌氏や是枝裕和氏ら映画関係者、映画ファンから声があがり、「公権力による検閲、介入だ」「表現する側の自主規制や事前検閲で表現の自由が奪われる」などと抗議が相次いだ。上映中止をめぐる公開授業や討論会が開かれた結果、主催者は中止を撤回し、映画祭最終日に復活上映が決まった。
これに対し原告らは、川崎市役所を訪れて上映を認めないよう市に要請。復活上映がされた当日には藤岡氏が映画祭会場を訪れ、「出演者として舞台あいさつに参加したい」と主張する場面もあった。
提訴後、口頭弁論が2019年9月と11月に2回開かれた後は、コロナ禍もあって非公開の弁論準備手続きが続いた。2021年秋、2年ぶりに公開の法廷が開かれ、9月9日に原告本人尋問、16日に被告本人尋問が行われた。
尋問では原告の藤木氏が、映画のなかで「フェミニズムを始めたのは不細工な人たちなんですよ。要するに誰にも相手されないような女性。心も汚い。見た目も汚い」と語っている箇所についてのやりとりがあった。
原告側弁護士の質問に対し藤木氏は「極端なフェミニストに対して話したのであって、あそこは(私の発言が)切り取られているので、インタビュー全部(の映像)を出せば意図が伝わると思います」と説明。一方、被告側弁護士から「記者会見でこの発言について、あなたは『訂正の必要はない』と述べたことはありませんか」と聞かれ、藤木氏は「あります」と答えた。
藤岡氏は、2016年に取材を受けた際のやりとりをめぐって、デザキ氏の陳述書に「(一緒に来た日本人女子学生に)通訳してもらいながら、藤岡氏と話した」などと書かれていることについて原告側弁護士に聞かれ、「すべてウソです。デザキ氏も英語で話したことは一度もありません。すべて日本語で。日本人であると100%思っていました」と主張した。
これに対し被告側弁護士は、藤岡氏のインタビュー動画の一部を法廷で再生。デザキ氏が英語で話していることを確認したうえで、「あなたが言ったことは事実とは違うんじゃないですか」と指摘し、「デザキさんが英語で話して、それを(女子学生が)通訳したんじゃないんですか」とただした。藤岡氏は「いや、質問したのは一貫してデザキ氏と記憶しています。私に向かって英語で質問をしたことはありません」と答えた。
民事訴訟での尋問は通常、原告や被告の代理人弁護士が質問することがほとんどだ。しかし今回の訴訟では、原告の藤岡氏や藤木氏が、被告のデザキ氏らに対して弁護士を介さず直接質問する場面もあった。
藤岡氏は、映画で韓国人元慰安婦の李容洙(イヨンス)さんが登場する場面を示し、「李容洙は慰安婦ではなかったという説があるのはご存じですか」などと質問した。デザキ氏は英語で「いえ、知りません。私は歴史の専門家に確認しなくちゃなりません。あなたも歴史の専門家ではありません」と答えている。
判決は今年1月27日に言い渡され、原告が求めた上映禁止、損害賠償などの請求がいずれも棄却された。主な争点として①監督が出演者らをだましたか②映画が出演者らの名誉を傷つけたか――の2点についての判断が示された。
①について原告側は「被告は政治プロパガンダ映画を製作し、商業映画として一般公開する計画を隠し、大学院の卒業制作として学術研究目的であるかのように装い、原告を誤信させて取材に応じさせた」と主張した。
これに対し東京地裁の柴田義明裁判長は判決で、デザキ氏の求めで出演者5人が署名した「承諾書」や「合意書」について、「文言上、配給、上映、販売や公開されることがあることを前提とするものである」と指摘。原告らは「映画が一般公開される可能性をも認識したうえで許諾したと認められる」と認定した。
デザキ氏は映画公開前の2018年秋、釜山国際映画祭で作品が上映される予定となったことや、日本国内での公開が決まったことを出演者らに告知した。その際、藤木氏らからメールで「おめでとう」と祝意を伝える返事があったり、ギルバート氏が映画を宣伝する好意的なツイートをしたりした事実を判決は指摘。原告らが公開前に映画の公開について抗議しなかったことも踏まえ、判決は「被告が原告を欺罔した(だました)と認めるには足りない」と判断し、「詐欺」を否定した。
原告らは映画のもととなったデザキ氏の大学院での研究に不正があり、上智大学が定める研究倫理規定に違反していると強調。提訴後の2019年10月、デザキ氏の研究に参加する同意の撤回を意思表示し、デザキ氏と交わした「承諾書」や「合意書」もさかのぼって無効になると主張した。
この点について判決は、「規定は研究に関するもので、映画に適用されるべきものとは直ちには認められない。研究参加の同意を撤回したからといって、映像の利用についての許諾がさかのぼって無効になるとは認められない」と判示し、原告の主張を退けた。
②をめぐって原告側は、映画で原告らについて言及された表現を問題視した。映画の冒頭近くの場面で、ギルバート氏や藤岡氏ら原告がインタビューに答える映像にかぶせる形で英語の「REVISIONISTS」(修正主義者)、「DENIALISTS」(否定論者)という大きな文字が重ねられ、英語のナレーションと日本語字幕で「彼らは『歴史修正主義者』または『否定論者』と呼ばれる」と説明される。この箇所について原告側は「極めて否定的なレッテルを貼り、名誉権を侵害するもの」と主張した。
判決は、これらの表現について「原告らに対する人身攻撃に及ぶなど意見や論評の域を逸脱するもの」とはいえないとした。
さらに原告の藤岡氏がデザキ氏の取材に「歴史を改訂することは進歩であって必要なことだ」と答えたことを指摘。「『歴史修正主義者』の言葉は多義的」であり、「歴史の定説を再検討し新たな解釈を提示しようとしている者」という意味で用いられることもあると述べた。
そして、原告らが「歴史修正主義者」と呼ばれたことで、「一般的な視聴者」が原告らについて「客観的な史料が全くないのに自分の思想や価値観に基づく認識を強硬に主張している者」といった意味まで含めて否定的に評価するとは限らない――との判断を示し、名誉権侵害としての違法性を否定した。
判決のこの箇所を読むと、「原告らが被告からの確認の求めに何らの申し出等をしなかったのであるから、被告が義務を履行しなかったと主張することは許されないというべきである」などと厳しい言葉が使われている。
難解な法律用語を並べた無味乾燥な記述が延々と続くようにも見える判決文のなかから、ふと裁判官の考えが垣間見えたように感じられた。
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