[2月26日~3月1日]チェルニフツィ、志願兵受付所、イバノフランコフスク……
2022年03月03日
ウクライナより愛をこめて④ 雪の国境越え、赤ちゃん連れに順番を譲る人々
2月26日(土) 朝、7時にチェルニフツィ郊外の宿舎を出て、きのう下見した生中継場所の市庁舎前広場に移動。コーディネーターのオルガとドライバー、僕ら4人を乗せてミニバスで。20分あまりかかる。この町の道路は石畳のところが多いので車は揺れっぱなし。僕は慣れているが都会育ちのKはぶつぶつ文句を言っている。
『報道特集』の中継はこちらからは3回のタイミング。冒頭の挨拶とVTRのリードと、3分程度の短い状況解説。あとはギリギリの時間まで伝送した素材の編集に、東京がどれだけがんばってくれるかにかかっている。オンエアまで短い時間しか残されてなく完全に徹夜だろう。祈るような気持ちだった。
広場に面した通りのATMの前にはすでに何人かが行列をつくって並んでいて現金を引き出そうとしていた。それ以外はこの周辺に関する限り平常通りの風景のようにみえた。
午前9時からのリハーサルに備えて場所決めなどをしていたら、何やら様子がおかしい。僕はミニバスに戻って原稿をつくっていたのだが、みると僕らのチームに複数の地元警察官たちが接近して来て何やら話をし始めているではないか。
車に戻ってきたオルガとK、Iに聞くと、「市庁舎は戒厳令が出ているので撮影禁止だ、ここでの中継は許さない」と言ってきたという。ところがオルガが機転を利かせてキエフの警察本部に直接「通報」して許可を得たら、地元警察官らは認めざるを得なくなって、すごすごと引き下がっていったのだという。オルガの1本の電話ですべてがクリアされたのをみて、僕はモスクワ特派員時代のいくつもの理不尽な出来事を思い出した。
9時からのリハーサルも無事終了。あとは午前10時30分からの本番まで、車のなかで休んだ。
本番の冒頭で僕は次のように言った。「こんばんは。戒厳令が敷かれているウクライナ南西部の都市チェルニフツィに来ています。ロシアが本格的なウクライナ侵攻を開始した翌日に私たちは、ルーマニア国境から、ここに来ました。途中、多くのウクライナ人が、避難民として祖国から逃れていく姿を目の当たりにしました。首都キエフは今、陥落の危機に直面しています。JNNの取材チームはキエフにとどまって取材を続けています。戦争によって平和な生活が蹂躙されるという歴史的に重大な局面に私たちは今立ち会っています。現場で何が起きているのか、総力でお伝えします」。
挨拶の後は、オンエアの中身をIが設定したスマホの送り返し映像で必死にみていたが、あれほどの時間の追い込みで送った素材のエッセンスがきちんとセンスよく編集されているのをみて何だか胸が一杯になった。
その後に言いたかったことは、ソ連の崩壊を直接現場で取材した記者のひとりとして、プーチンが今とっている行動がいかにパターン化したソ連時代の「偉大なるロシア」思考と同質なものかということを言いたかったのだが、果たして伝わったかどうか。
これは「ロシア人とは何か。ヨーロッパとは何か」というアイデンティティーの本質にも直接関わる問題だと思う。ロシア文学や、ロシア文化の質の高さ、キリスト教正教の問題、スラブ民族の一体性など、考えきれないほどの多くの課題が含みこまれている。
この回の『報道特集』は、その他の取材も含めて内容がなかなか充実していたように思った。来た甲斐があったか。いや、まだ何も始まっていない。これからだ。今後の取材が重要だ。
その後、ランチをとって今後の取材計画を練る。この町の風景を見る限り、business as usualにみえるが。その後、水や食料やらの買い出し。
ゼレンスキー大統領のロシア国民に向けたSNSメッセージが刺さる。とりわけロシア国営テレビのプロパガンダ御用機関としての役割について言及している箇所。何とこのチェルニフツィにもCurfew(夜間外出禁止令)が発令された。夜の10時から朝6時まで。宿舎の食堂も午後8時に閉まることになった。
2月27日(日) ウクライナ本格侵攻から4日目。きのうの生中継でかなり疲弊したこともあって、正午に宿舎を出て取材スタート。チェルニフツィ市の志願兵、義勇兵受付所(commissionaire)の取材に赴く。
プレス担当のタチアーナ・ポポーヴィチさんは迷彩服に身を包んだ若い女性で、歓迎された。まさか日本からこの地に取材陣が訪れるとは思ってもみなかったようだ。基本的には建物の内部は撮影禁止と言われ、タチアーナ氏が何人か選んで玄関口の外の路上に連れて来た志願兵にインタビューするが、その後、受付所の建物の内部の取材が許されてからみた光景がより生々しかった。自分たちの祖国を守るというよりは、ロシアの侵攻に対して、立ち上がらざるを得ないという理不尽な状況が伝わってきた。
迷彩服ではない普段着で椅子に座っていた志願兵らしい男性と妻に話を聞いた。過剰に愛国心丸出しの義勇兵タイプとは全く異なる普通の夫婦だったので、その分、いろんな思いが伝わってきた。外国籍のポーランド、ルーマニア、モルドバ、イタリア、スペイン、グルジア、チェチェンから来た人々も申し込んでいるという。
よくみるとここはとても古いヨーロッパの街並みだ。東欧ユダヤ系の人々がかつて多く住んでいたようだ。アウシュヴィッツの悲劇の主舞台でもある。そのロシアがナチス化を攻撃するとして「東部ウクライナでジェノサイドがあった」とか言って介入してきた経緯を考えると、歴史のめぐり合わせを考えざるを得ない。敵を憎むあまり敵と同様の行動をするのだ。
夜、宿舎で眠っていたら23時半過ぎに、いきなり宿舎の受付のおばちゃんが息せき切って部屋をノックして来て「空襲が始まる。早く逃げて!」と言ってくる。鬼気迫る表情だった。ええっ! 僕は、となりのI、Tのいる部屋、そしてKの部屋をノックして起こして回って、避難が必要だと言われた旨伝えた。すぐに着替えてリュックを背負い、歩いて2分ほどの近くにある防空壕(地下シェルター)に誘導され避難させられた。
この狭い地下の空間に、最終的には60人くらいの宿泊客及び近隣住民がいた。猫1匹と犬2匹も一緒だ。みんな不安そうな表情だ。Tが撮影を始めたら、赤ん坊を抱えた男性が怒ってやめろと言ってきた。その際、よく聞き取れなかったが、
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