バブル崩壊後に開業したテーマパーク型のショッピングモールが残してくれたもの
2022年03月27日
東京・お台場エリアにある人気の商業施設「ヴィーナスフォート」(東京都江東区青海)が、3月27日をもって完全閉館する。
ヴィーナスフォートは「女性のためのビューティ・テーマパーク」をコンセプトに、“全天候型のテーマパーク型ショッピングモール”として、1999年8月25日に東京・お台場に開業し、22年と7カ月もの間、多くの人たちの想い出を生み出してきた。
半年前にヴィーナスフォート閉館を知ってから、できる限り足を運ぶようにしてきた。閉館が迫るごとに日々、胸がつかえる苦しさを感じる。想い出の場所を失うことの喪失感はもちろん、この場所が平成から令和にかけての約23年間、移り変わってきた時代の象徴のような場であったことが理由なのだと感じている。
ヴィーナスフォート開業時を振り返り、今までの感謝とヴィーナスフォートに対する想いを書き残したい。
小学生の頃、両親が休日に車で連れて行ってくれた「船の科学館」に向かう道中で、現在の「お台場エリア」を知った。当時、車窓から見えたのは、真っすぐに伸びる道路以外、一面の空き地だった。
その後、東京都の臨海副都心開発計画のもと、1993年にレインボーブリッジが開通、1995年にはゆりかもめ(新橋- 有明間)が開業、1996年に「デックス東京ビーチ」開業、1997年のフジテレビのお台場本社への移転等が続き、現在の「お台場」の街並みが一気に形成されていった。
ヴィーナスフォートが開業した1999年は、バブル崩壊後の不況が続き、有効求人倍率は急落して0.48%という最低の数値を記録した年であった。いま思えば、21世紀に向けての期待と先行きへの不安とが入り混じる、独特の空気感が漂う不思議な年だった。
この年の1月、私は成人式を迎え、ヴィーナスフォート開業時は20歳だった。翌々年に大学卒業、就職する年であり、長引く不況時に社会に出ていくことの不安を感じ、将来に向けた準備を進めていく必要があったのかもしれない。
しかし、私はそういった不安よりも、中身はまだまだ子どもながら、法律上は「大人」となり、新たに出来るようになったことを、好奇心の赴くままに試していく、わくわくした毎日を送っていたことを記憶している。
まさに、そんなタイミングで現れたヴィーナスフォートは、子どものころ、思い描いていた「大人の世界」そのままで、はじめて訪れた時の興奮は大変なものだった。
小さな時にテレビで見て、「いつか必ず行きたい」と夢を膨らませていたラスベガスの景色が、そこにあった。施設内の天井には青空が広がり、女神が集う噴水広場の近くには、大人になったらこういう場所でデートをするのだろうな、と少女時代に夢見たようなレストランがあった。ふと見上げると、ローマの神殿にあるような像が並び、壁には絵画が飾られ、歩き進めていくと教会のある空間が広がっていた。
一歩踏み込んだだけで、他の場所にはない“非日常感”を味わうことができて、何度行っても飽きることはない最高の空間だった。
この壮大な世界観を誰が生み出したのか? ヴィーナスフォート誕生のストーリーを調べるなかで、その仕掛け人が、ゲームソフトの大手企業スクウェアの創業者であり、大ヒットゲーム「ファイナルファンタジー」の生みの親である宮本雅史氏であることを知った。
「青海S街区」と呼ばれた東京都所有の土地の開発権を10年の期限付きで与えられた森ビルは、同時期に「青海T街区」の開発権を与えられた三井物産と共に、臨海副都心ST街区開発推進協議会を発足。複合型商業施設「パレットタウン」の開発に取り組むことになった。森ビルが構想したのが、大型ショッピングモールをつくることだった。
宮本氏は森ビルの森稔社長に、若い女性にターゲットを絞ったテーマパーク型ショッピングモールを開発するよう提案。その結果、50%ずつの出資でヴィーナスフォート社を設立。ハードやテナント開拓の領域を森ビル、ソフトの領域を宮本氏が担い、開発を手がけることとなった。
宮本氏は、"ビューティ"というキーワードを設定し、ターゲットとなる顧客層を20代から30代の女性に絞り、施設内には徹底して「非日常性」を演出したという。
内装デザインに、ラスベガスの巨大ホテル・カジノの「シーザーズ・パレス」内にあるショッピングモール「フォーラム・ショップス」を手がけた、テリー・ドゴール氏率いるドゴール・デザイン・アソシエートを起用し、17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパの街並みを再現した。
空の演出は、米国のテーマパークなどで実績があるマーキャド・デザイン社と提携し、約1時間のローテーションで、昼の青空から夕焼け、日没、夜空へと変化し、朝焼けの空から再び昼の空へと変化する天空の演出システム「スカイフィーチャー・プログラム」を開発。「何時間過ごしても心地よい、美しき異空間創り」を目指したという。
当時の不況や不便な立地等の悪条件を、"感動が消費を生む"という発想をとことん追求して乗り越えるために生み出されたのだということを知り、だからこそのあの空間であることに深く納得した。
パレットタウンの借地権契約は10年であり、当初の予定では2010年6月までに施設全体を閉鎖(撤去)し、都に土地を返還することとなっていた。これは、1990年代当時、バブル崩壊による不況や交通の便の悪さという悪条件が重なり、台場地区の売却先が見つからなかったことから、苦肉の策として都が10年間の期限付で賃貸料を異例の廉価で土地の貸し出しを行ったためだった。
しかし、パレットタウンが成功を収めたため、
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