復帰50年―那覇の市場から①
2022年04月05日
2022年5月、沖縄は本土復帰50年を迎える。東京から那覇に通い、風景を見つめ、人と語り合っているノンフィクションライターが、沖縄のいまを考え、つづる連載です。
3月半ば。東京発那覇行きの飛行機は、ほとんど満席に近かった。
欠航が多いせいもあるけれど、少しずつ旅行客が戻りつつあるのを感じる。手荷物受取所に掲げられた「めんそーれ」の文字のある看板を、若者たちが写真に収めている。その初々しさに、どこか懐かしさをおぼえる。
その当時、僕は『月刊ドライブイン』というリトルプレスを刊行していた。
かつては日本各地に点在していたドライブインが、少しずつ姿を消しつつある。ドライブインが過去のものになってしまう前に、今も営業を続けているお店を取材して、記録に残しておきたいと思ってつくり始めていたリトルプレスだ。
何冊か『月刊ドライブイン』を発行した頃に、沖縄に移り住んだ方と久しぶりにお会いする機会があった。その方は「那覇にある牧志公設市場がもうすぐ建て替え工事に入ってしまう」と教えてくれた。そして、「工事が始まると風景が移り変わってしまうから、日本各地のドライブインを取材しているみたいに、市場のことも取材して残してほしい」と言われた。
その一言がトゲのように残り、那覇に通い始めたのが2018年6月のことだ。
牧志公設市場は、「県民の台所」とも呼ばれる。その歴史は戦後の闇市を起源に持つ。
終戦後、那覇の中心地は米軍によって民間人の立ち入りが禁じられた。
最初に立ち入りが許可されたのは、戦前の街並みからすると郊外に位置する那覇市壺屋の一帯だ。そこに復興のための先遣隊が派遣され、日用品や雑貨の生産に取り掛かる。そこから闇市が生まれ、那覇市が1950年にこれを整備し、牧志公設市場が誕生する。当初は木造の平屋だったが、1972年に近代的なコンクリート造の建物に生まれ変わった。それから半世紀近くが経過し、老朽化が進んだ市場をふたたび建て替えることになったのである。
前の牧志公設市場が完成したのは、沖縄復帰の年だ。琉球新報は、新しい市場が完成した10月3日の様子をこう報じている。
市場業者は、開南の仮設市場をたたみ、新装なった第一牧志公設市場に移った。開設式の午後二時ごろには、約四百人の業者が入り口に集まり太鼓を打ち鳴らすなど前祝い。平良市長、比嘉議長、比嘉南洋土建社長の手でテープカットが行なわれるや、ドッと拍手が沸きおこった。このあと平良市長を先頭に店内をひと回り、清潔なショーケースなどすばらしい市場に目をみはっていた。
市場業者のほとんどが感激のあまりカチャーシーを踊る。「ほんとに十余年もかかってやっと市場ができた。こんなうれしいことはない」と市場業者。(琉球新報、1972年10月4日)
その日から47年後。
2019年6月16日、牧志公設市場は一時閉場を迎え、市場の前では盛大なセレモニーが開催された。あの日もまた、市場事業者や建て替えを惜しむ買い物客たちはカチャーシーを踊り、太鼓の音が通りに響き渡っていた。
界隈で取材を続けていると、「昔はまっすぐ歩けないほど賑わっていた」という思い出を聞くことが多々ある。今のようにスーパーマーケットがなかった時代には、愛称の通り「県民の台所」として、県内各地からやってくる買い物客で大賑わいだった。特にお盆や旧正月になると、お供え物を買い求めるお客さんが詰めかけて、深夜まで客足が途絶えなかったという。
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