メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

沖縄2022 変わりゆく「台所」と「観光」というまなざし

復帰50年―那覇の市場から①

橋本倫史 ノンフィクションライター

 2022年5月、沖縄は本土復帰50年を迎える。東京から那覇に通い、風景を見つめ、人と語り合っているノンフィクションライターが、沖縄のいまを考え、つづる連載です。

那覇に通い、変わる風景を記録する

 3月半ば。東京発那覇行きの飛行機は、ほとんど満席に近かった。

 欠航が多いせいもあるけれど、少しずつ旅行客が戻りつつあるのを感じる。手荷物受取所に掲げられた「めんそーれ」の文字のある看板を、若者たちが写真に収めている。その初々しさに、どこか懐かしさをおぼえる。

那覇空港にある、歓迎の意をあらわす「めんそーれ」の看板=2022年3月、筆者撮影
 2018年から、毎月のように那覇に通っている。きっかけはふとした言葉だった。

 その当時、僕は『月刊ドライブイン』というリトルプレスを刊行していた。

 かつては日本各地に点在していたドライブインが、少しずつ姿を消しつつある。ドライブインが過去のものになってしまう前に、今も営業を続けているお店を取材して、記録に残しておきたいと思ってつくり始めていたリトルプレスだ。

 何冊か『月刊ドライブイン』を発行した頃に、沖縄に移り住んだ方と久しぶりにお会いする機会があった。その方は「那覇にある牧志公設市場がもうすぐ建て替え工事に入ってしまう」と教えてくれた。そして、「工事が始まると風景が移り変わってしまうから、日本各地のドライブインを取材しているみたいに、市場のことも取材して残してほしい」と言われた。

 その一言がトゲのように残り、那覇に通い始めたのが2018年6月のことだ。

 牧志公設市場は、「県民の台所」とも呼ばれる。その歴史は戦後の闇市を起源に持つ。

1972年5月の那覇市牧志。戦後、ガーブ川沿いに闇市がたった。市は1965年に川を暗渠化し、その上に水上店舗を整備した

 終戦後、那覇の中心地は米軍によって民間人の立ち入りが禁じられた。

 最初に立ち入りが許可されたのは、戦前の街並みからすると郊外に位置する那覇市壺屋の一帯だ。そこに復興のための先遣隊が派遣され、日用品や雑貨の生産に取り掛かる。そこから闇市が生まれ、那覇市が1950年にこれを整備し、牧志公設市場が誕生する。当初は木造の平屋だったが、1972年に近代的なコンクリート造の建物に生まれ変わった。それから半世紀近くが経過し、老朽化が進んだ市場をふたたび建て替えることになったのである。

「県民の台所」の賑わい

 前の牧志公設市場が完成したのは、沖縄復帰の年だ。琉球新報は、新しい市場が完成した10月3日の様子をこう報じている。

 市場業者は、開南の仮設市場をたたみ、新装なった第一牧志公設市場に移った。開設式の午後二時ごろには、約四百人の業者が入り口に集まり太鼓を打ち鳴らすなど前祝い。平良市長、比嘉議長、比嘉南洋土建社長の手でテープカットが行なわれるや、ドッと拍手が沸きおこった。このあと平良市長を先頭に店内をひと回り、清潔なショーケースなどすばらしい市場に目をみはっていた。
 市場業者のほとんどが感激のあまりカチャーシーを踊る。「ほんとに十余年もかかってやっと市場ができた。こんなうれしいことはない」と市場業者。(琉球新報、1972年10月4日)

 その日から47年後。

 2019年6月16日、牧志公設市場は一時閉場を迎え、市場の前では盛大なセレモニーが開催された。あの日もまた、市場事業者や建て替えを惜しむ買い物客たちはカチャーシーを踊り、太鼓の音が通りに響き渡っていた。

一時閉場(2019年6月)する前の牧志公設市場の賑わい=筆者撮影
一時閉場(2019年6月)する前の牧志公設市場の賑わい=筆者撮影

一時閉場し、移転のためがらんとした市場の中=2019年、筆者撮影
 自然発生的に生まれた市場界隈は、「まちぐゎー」(市場)と呼ばれ、大勢の買い物客で賑わってきた。公設市場を中心にして小さな商店がひしめき合い、迷路のように路地が張り巡らされている。

 界隈で取材を続けていると、「昔はまっすぐ歩けないほど賑わっていた」という思い出を聞くことが多々ある。今のようにスーパーマーケットがなかった時代には、愛称の通り「県民の台所」として、県内各地からやってくる買い物客で大賑わいだった。特にお盆や旧正月になると、お供え物を買い求めるお客さんが詰めかけて、深夜まで客足が途絶えなかったという。

・・・ログインして読む
(残り:約4572文字/本文:約6224文字)