メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

ハンセン病患者の半世紀にわたる自由獲得への闘いが、コロナ感染者差別を抑止した

「公共の福祉」の名の下でのプライバシー権侵害を許さぬ社会へ

有薗真代 龍谷大学社会学部専任講師

 2020年初頭に始まった新型コロナウイルス感染症(covid-19)のパンデミックは、世界を大混乱に陥れた。2年以上が経過しても感染の収束は見通せず、政治・経済・教育など社会のあらゆる面で、問題や課題が山積している。日本においても、市民の行動制限や飲食店の営業制限などをめぐって、激しい論争や社会的対立が起こり、政府や行政の感染対策にしばしば厳しい批判が向けられたのは周知の通りである。

 一方で、新型コロナウイルス感染症のパンデミックにおいては、日本の感染症対策史上、異例ともいえる迅速さで、感染者やその家族のプライバシーを保護するための対策がとられた。たしかに感染拡大当初は、感染者の個人情報がさらされ、感染者やその関係者が差別や攻撃を受ける事例が頻発した。だがほどなく、行政機関・教育機関・報道機関などが、プライバシー保護を徹底するようになり、一般市民の間でも、感染者の個人情報の暴露は非倫理的だという意識が共有されていった。

 なぜ、新型コロナウイルス感染症への各種対応が「グダグダ」だとしばしば批判を受けてきた日本において、感染者のプライバシー保護が、世界でもめずらしいほど迅速に進んだのだろうか。

「STOP コロナ差別」と訴えるサッカーチーム「鈴鹿ポイントゲッターズ」の選手ら 「STOP コロナ差別」と訴えるサッカーチーム「鈴鹿ポイントゲッターズ」の選手ら

 結論をやや先取りして述べよう。日本の感染症罹患者の歴史的経験をふまえて、プライバシー保護の重要性を、1950年代という早い時期から粘り強くうったえ続けてきた人びとがいたのである。その人びとこそ、ハンセン病患者たちであった(本稿ではハンセン病からの回復者を含めてハンセン病患者と総称する)。

 日本のハンセン病患者は、戦前のみならず戦後も、「公共の福祉」の名のもとに、人生と人権の多くを奪われてきた。だからこそ、 かれらは自由権やプライバシーが基本的人権の重要な要素であることを身をもって理解しつつ運動を展開し、感染症罹患者のプライバシー権を社会に一定程度定着させることができたのだった。

>>関連記事はこちら

コロナ禍では早期から感染者差別抑止の取り組み

 2020年春に新型コロナウイルス感染症のパンデミックが始まると、日本でも感染者やその家族、医療従事者などへの差別・排除が起こった。しかし、感染拡大とほぼ同時期に、全国レベルで感染者差別を抑止するための体系的な取り組みが始まっていた事実は、あまりかえりみられることはない。

 感染拡大初期にあたる2020年3月19日に、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議が発表した「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」は、市民や企業、報道機関に対して、次のように「公衆衛生対策」と「個人情報保護」の両立を呼びかけた。

 感染者、濃厚接触者とその家族、この感染症の対策や治療にあたる医療従事者とその家族に対する偏見や差別につながるような行為は、断じて許されません。誰もが感染者、濃厚接触者になりうる状況であることを受け止めてください。報道関係者におかれましては、個人情報保護と公衆衛生対策の観点から特段の配慮をお願いします。感染症対策に取り組む医療従事者が、差別等されることのないよう、市民等は高い意識を持つことが求められます。

 さらに専門家会議は、1回目の緊急事態宣言の段階的解除の初日にあたる2020年5月14日に発表した「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」において、以下のように述べている。

 〇感染者に関する報道を通じて、SNSやインターネット上で、個人や家族、勤務先等を追跡・特定され、嫌がらせを受ける事例が報告されている。また、感染から回復された方、その濃厚接触者だった方に対して、学校や職場が理解を示さず、速やかな復帰ができない事例が報告されている。

 〇感染者等に対する偏見や差別は、絶対にあってはならないものであり、政府や地方公共団体は、悪質な偏見や差別の撲滅に向け、疾患に対する正しい認識の周知に努めるとともに、人権が侵害されるような事態が生じないよう適切に取り組むべきである。

 ここでは、感染者とその家族や勤務先に対するプライバシー侵害の事例について、簡潔ながらかなり踏み込んで言及し、政府や地方自治体等が「悪質な偏見や差別の撲滅に向け」て取り組むことを促している。

偏見や差別意識の解消を目的につくられた中高生向けの教材=東京都教職員研修センター提供 偏見や差別意識の解消を目的につくられた中高生向けの教材=東京都教職員研修センター提供
 こうした提言を受けて、政府機関はもちろん、各地方自治体や報道各社も、かなり早い段階で、感染者に対する差別禁止やプライバシー保護に関するガイドラインや条例を定めていった。

 そして厚労省は2020年9月1日、新型コロナウイルス感染症対策分科会に、「偏見・差別とプライバシーに関するワーキンググループ」を設置した。同ワーキンググループの主要メンバーには、感染症罹患者への差別問題に詳しい研究者が複数入り、感染者のプライバシーに焦点を当てて、偏見・差別の実態把握や相談・啓発の体制構築に取り組んだ。

 筆者は、近現代日本の法・政治・社会システムによって差別・排除されてきたハンセン病患者や結核患者が、それを乗り越えるべく試行錯誤しながら生み出してきた多種多様な実践について、フィールドワークに基づく研究を積み重ねてきた。その筆者の目からみても、新型コロナウイルス感染症のパンデミックに関していえば、感染者差別に対する日本政府や地方自治体の取り組みは迅速かつ適切であったと評価できるものである。

 なぜ専門家会議や厚労省は、ここまで迅速に、新型コロナウイルス感染症患者のプライバシー保護に乗り出したのだろうか。その背景には、

・・・ログインして読む
(残り:約5319文字/本文:約7624文字)