新條まゆと富川久代が語る軽井沢の光と影と波乱の人生
2022年04月24日
長野県軽井沢――。江戸時代、中山道の宿場町だったこの町は、明治以降、政治や経済、文化の重要人物が休暇を過ごしたり、重要な決定を下したりする“特別な場所”になった。昭和の高度成長以降は、大衆消費文化の発展とともに、庶民の憧れのリゾートになり、コロナ前には年間800万人以上の観光客が訪れていた。時代とともに相貌を変えてきたこの町は、日本の歴史を映す「鏡」でもある。
山に囲まれた小さな町である軽井沢はなぜ、人を引きつけてきたのか。これからの魅力のある場所であり続けるのか。連載「軽井沢の視点~大軽井沢経済圏という挑戦」の第2回は、『快感・フレーズ』が大ヒット、売れっ子漫画家としての超多忙な生活から決別し、軽井沢に移り住んだ新條まゆさんと、リーマン・ブラザーズ日本法人の代表清算人として、史上最大規模の経営破綻に伴う債権債務処理に10年間奮闘した後、やはりこの町に住むようになった富川久代さんに、軽井沢の魅力と課題、仕事と人生について、本音で語っていただきました。
冨川 久代(とみかわ ひさよ) 元リーマン・ブラザーズ証券業務部長・代表清算人
1966年生まれ。大和證券株式会社の後、ドイツ銀行債券業務部長、リーマン・ブラザーズなどの外資系金融会社を経て、イル・モンド・ジャパン株式会社を設立。ハイブランド専門セレクトショップ「CONSTANTINA」開店。NPO法人・チャイルド&アニマルチャリティー協会理事。2022年4月現在 地域に根差した新事業準備中富川久代さん
新條まゆ (しんじょう・まゆ) 漫画家、インテリア会社代表、コンテンツプロデューサー
1994年に「あなたの色に染まりたい」で漫画家デビュー。テレビアニメ化もして国内外で大ヒットした「快感・フレーズ」をはじめ、女性を中心に人気を集める。現在は電子書籍ストアにて最新作『虹色の龍は女神を抱く』を配信中。軽井沢のMaison de Coconというインテリア会社経営。様々な分野でプロデューサーとして活躍。新條まゆさん
(構成 論座編集部・吉田貴文)
――今日は新條さんの軽井沢のお宅にお邪魔しています。広々として素敵なお家ですね。
新條 冬は寒くて暖房代も馬鹿にならないですよ。ただ、気分はのびのびします。
――富川さんはお住まいからここまでどれぐらいですか。
富川 私のマンションからは車で5分ぐらいですね。
――創作の世界やビジネスの最先端で活躍されていたお二人ですが、どうして軽井沢に移住なさったのですか。
富川 外資系金融を中心に約20年キャリアを積んだ後、2008年にリーマン・ブラザーズに転職したのですが、その転職直後にリーマン・ブラザーズは破綻しました。その後,
日本法人の代表清算人として、6兆円の清算業務を10年かけて終えたのを機に2018年、人生を変えたいと思って東京から移住してきました。別荘があったわけでも、知人や友人がいたわけでもなく、直感で軽井沢を選びましたね。
――別荘という選択肢はなかったのですか。
富川 20年前ぐらいに前に軽井沢の別荘を探したことがありましたが、その時は神奈川県葉山町に別荘を持ちました。今回、いよいよ完全に東京から出ようと直感で思い立ち、冬の間に家探しをしてマンションを買いました。
――新條さんはどういういきさつで軽井沢に?
新條 アシスタントに長野県上田出身の方がいて、家族でよく軽井沢に行っているという話を聞いていました。夏でも涼しいと言うけど、ほんとうにそうか疑問でしたが、実際に来たらほんとうに涼しい。
気持ちがいいので、夏に1カ月間滞在してマンガのネームをつくり、東京に戻る生活を繰り返していたのですが、冷やかしで土地を見ているうちに家を建てたくなり、2017年に東京の自宅を売って軽井沢に家を建て、しばらくは別荘として使っていましたが、2020年に完全移住しました。
連載「軽井沢の視点~大軽井沢経済圏という挑戦」の記事は「ここ」からお読みいただけます>>>
――実際に住むとなると、都会暮らしと違って大変なところもあると思いますが……。
富川 まずびっくりしたのは夜の暗さですね。4月に引っ越してきたのですが、私の6月の誕生日に新しくお友達になった方たちがパーティーを開いてくれたんです。夜11時ぐらいにお開きになり、お友達の車について家まで車を運転して帰る途中、曲がり角で前の車を見失い、遭難しました。
――遭難?
富川 街灯もなく、ほんとうに真っ暗なんですよ。どこにいるか分からなくなり、慌ててナビを入れましたが、知らない道を延々と走らされ、「暗闇で動物に出くわすかもしれないなあ」と考えながら、ハンドルを握りしめていました。神隠しにあうかもって思いました。
あとは虫ですね。マンションの植栽をしてくれている庭師さんとお喋りをしていたら、急に顔の周りがかゆくなり、家で鏡を見たら、顔が真っ赤。手のひらも真っ赤。焦りました。三連休初日の夕方で病院はやってなくて、こんなことで救急に行っていいか迷っていたら、フェイスブックにアップした顔と手の写真を見たお友達が、薬を持って来てくれました。旦那様がお医者様だったんですね。
原因は多分、毛虫の抜けた毛です。夜には腫れもひきましたが、こうした自分では初めての体験を投稿すると、「よくあるよ」っていう反応が結構あります。まさに、「田舎あるある」。
――新條さんはどうですか。虫は平気ですか?
新條 もともと長崎県の田舎の出身で虫は当たり前。むしろ軽井沢はパラダイスでした。ゴキブリはいないし。苦手のクモも九州と比べてちっちゃい。軽井沢で大変なのは、お酒を飲んだら、「代行」を頼まないといけないことかな。
富川 それ、ありますね。東京ではタクシーや地下鉄があるけど、車がないとどこにも行けない軽井沢では、お酒を飲んじゃうと代行を使うしかない。
――代行って、運転手が二人でやってきて、一人が自分の車を運転し、自分はもう一人が運転するタクシーに乗るというシステムですね。結構な出費ですよね。
新條 旧軽井沢のお店から自宅までだと3000円位。けちってもしょうがないんですけど、あと数杯ワインを飲めたなと思って……。なんだか気軽に飲めなくなり、あんまり出かけなくなっちゃいました。
――逆に軽井沢で良かったことは。
新條 健康的な生活になったことですね。家から朝日が見えるんです。それが見たいから早起きになる。空気はおいしいし、野菜も新鮮。朝から野菜スープをつくって食べると元気になります。
テニスも気軽に行けるのもいいですね。東京でテニスをしようとすると、電車で出かけて、受付をして着替えて、1時間半ぐらいプレーして帰ってくると、ゆうに3、4時間はかかる。ここだとテニスウェアで車に乗ってプレーできて、時間がかからない。
そんなこんなで、心身ともに健康になりました。実際、軽井沢への移住者に聞くと、持病が治ったって言う人が多いですよ。
――富川さんはいかがですか。
富川 東京にいるときは、ほんとうに仕事しかしていませんでした。帰宅しても、ロンドンやニューヨークに電話をしたり、電話会議があったり。友人と飲みに行っても、「夜11時から会議だから」と途中で引き揚げる。友人は金融業界の人たちばかりで、遊びといっても、映画や舞台を見にいったり、お買い物をしたりという程度でした。
そんな生活が軽井沢で劇的に変わりました。若い人、年配の方、いろんな職業の人たちと友達になり、ゴルフに行ったりテニスしたり温泉に行ったりバーベキューしたり。そういうのって私、若い頃、まったくしていなかったことに気が付きました。今では、困ったことがあると、かけつけてくれる友達もたくさんいます。
――移住といっても、新條さんのように仕事はそのまま、住む場所を変えるケースもありますが、富川さんの場合は、金融の仕事を辞め、セレクトショップのオーナーになるという大転身でした。旧軽井沢にお店をもたれていますね。
富川 移住を決めた後、友人に「軽井沢にマンションを買って引っ越すんだ。金融は卒業して、しばらくゆっくりしてから、何がやれるか考えてみる」と言ったら、「よく海外にいっていたし、ブランド品も好きみたいだから、セレクトショップをやってみたら」と言われ、「それもありかな」と無計画に始めたんです。
スタートして1年でコロナ禍になり、厳しい時期もありましたが、この4月で丸3年。お得意様も増えました。なかでも嬉しかったのは、病気で家に閉じこもっていた70歳を越えたお客様が、私の店に来るのが楽しみになり、「おしゃれして出かける場所ができた」と喜んでくれたことですね。それと、実は昨年、お店に泥棒が入って被害甚大だったのですが、町のみなさんが応援してくださって、立ち直ることができたんです。被害そのものよりも、その応援が身に沁みました。
――いまは軽井沢で健康的な生活を送るお二人ですが、移住以前は、充実のいっぽうでストレスも多い生活でいらしたと思います。新條さんは漫画家。連載があるとほんとうにハードですよね。
新條 そうですね。2日間徹夜して3時間寝るみたいな生活でした。よく生きていたと思います。目薬をさそうとしたまま、寝たこともありますよ。
――目薬!
新條 眠いので、目が疲れてなくても、目薬をさすんです。あるとき、目薬を目の上にかざしたまま、寝てしまった。固まっている私にアシスタントが気が付いて、「先生、先生」って起こしたらしいです。
――仕事量は、やはり調整は難しいものですか。
新條 私が悪いんです。やれるのなら、ぎりぎりまでやろうと思っちゃう。何とかなると始めちゃうんだけど、締め切りが迫ってもアイデアが浮かばないこともあり、バーンって爆発して、もうムリとなることもありましたね。
――漫画家になりたい人はたくさんいるけれど、なれる人は少ない。そして『快感・フレーズ』を1000万部を売った新條さんのような売れっ子になれるのは、ほんの一握りです。大変でしょうが、きっと充実感もありますよね。
紙に描くのではなく、デジタルで描いて納品するいわゆる「フルデジタル」に移行したのは、フリーになって4年過ぎた頃の2011年頃だったと思います。デジタルってやりたいことが全部できるんです。だから、余計に時間がかかっちゃった。
――やり過ぎた結果、どうなりました?
新條 ちょっと専門的になりますが、たとえば、主人公が喋っている顔があるじゃないですか。似たような顔を別のシーンでも描くことってありますよね。デジタルだと同じ顔をコピペすればできちゃう。
私、それをやったら、漫画家をやめようって思っていたんです。人間ってまったく同じ表情はしない。似ているからといって、別のシーンの顔をコピペしたら、魂は入っていないんです。やっている作家さんはいっぱいましたが、自分はやりたくなかった。
でも、あまりに忙しくて、コピペをしちゃったんですよ。限界を超えたんですね。その瞬間、もうやめなきゃと思った。それからは、仕事を減らし、時間的な余裕ができ、軽井沢に足を運ぶようになり、移住することになったわけです。
――じつは新條さんに初めてお目にかかったときはセミリタイアという感じだったのですが、今はまた新作を手掛けていらっしゃいます。
新條 やりたい作品があるからですが、今は自分で「ひと月にこれぐらい」と枠を決めています。テニスもやりたいし、お庭の世話もしたい。それが出来なくなったら昔と同じなので、バランスを考えるようになりました。
――富川さんはリーマン日本法人の代表清算人の頃が一番の激務でいらしたと思いますが、振り返るといかがでしたか。
雲行きが怪しくなった9月、日本では13、14、15日、土日月の三連休でしたが、必ず連絡がとれるようにと言われていたので、土曜日に携帯を持って美容院に行ったら連絡が入り、カットもそこそこに会社に行きました。翌日から1週間分の資金流動性レポートの提出を、日本銀行から命じられたからです。
――その資金流動性のレポートとは、具体的に何ですか?
富川 外資系金融機関は本国とその他の国の拠点の間で資金が環流しています。日本のリーマンでは主に、ニューヨークやロンドンと資金の受け払いがあるのですが、日本国内だけでの資金決済予定だけでなく、そうした海外との資金の出入りも含めて資金の動きを示すものです。
でも、今日にもニューヨークで会社が潰れようとしているんですよ。お金が入ってくることを前提にしたレポートに意味はないのではと口にしたら、「上に報告しなくてはいけないので今まで通りの作成方法で良いのでお願いします」と言われました。なんだか無力感を感じましたね。
三連休は家に帰れず、不眠不休で対応していました。日本銀行や財務省、金融庁との対応が私の責任でしたが、文字どおり電話が鳴りっぱなしでした。
火曜の未明に会社幹部と日本銀行の担当者などが集まって、翌朝、マーケットが開いたときの対応を検討しました。リーマンは当時、国債の引き受けシェアが大きく、週内に国に払い込まなければいけない金額が6000億円あった。ですが、通常は入札した金額の全額を用意する必要はないのです。
証券会社は入札した国債をその日のうちに、顧客である銀行や事業会社に売却します。その売却代金を受け取ることを前提として与信が日本銀行から与えられているので、日中200億円ほどもあれば国債の決済は可能なのですが、「今のリーマン・ブラザーズには与信は与えられない」ということで、このままでは、戦後初めて新規発行の国債の決済ができなくなる。マーケットは大荒れになると感じましたが、集まった人の多くは、何が起きるか想像すらできていない印象でした。
――で、朝がきた。
富川 ビジネスホテルで2時間くらい仮眠して会社に戻ってきたら、オフィスがあった六本木ヒルズの周辺はマスコミでいっぱい。その中を同僚が次々と出社してきましたが、皆、不安気でした。それでも、懸命に仕事をする姿を見て、「日本人だなあ」と思いましたね。外国だったら、みんないなくなっちゃいますよ。
――その後、日本法人の清算人になられました。
富川 破綻後、リーマンの世界各国の法人はそれぞれの国の破産法で整理されます。日本法人として生き残る方法を模索した結果、私たちが構築した知的財産であるITシステムとスタッフを野村證券に譲渡する契約が結ばれました。約1200人のうち四分の三ぐらいは移籍する道を選んだと思います。
私もとりあえず移籍するつもりでしたが、社内の法務部門のヘッドからどうするか聞かれたとき、「どうしようかなと思っています」と答えたら、清算会社であるリーマンに残るという契約書を、その場で弁護士がつくってしまったんです。不謹慎ですが、面白そうだと感じて、その場でサインしました。
最初の3年はほんとうに大変でしたね。読み切れないほどのメールは来るし、お客様からプレッシャーの電話はかかってくるし。不思議なことに、当時のことを今はほとんど思い出しません。人間って本当に大変だった頃の記憶は、心の奥底にしまい込むんですね。
――軽井沢に来て、新條さんは自分のペースで仕事をするようになった。富川さんはセレクトショップという新たな仕事に取り組んでいる。働く場としての軽井沢はいかがですか。この連載の初回で、テレワークやワーケーションの拠点として軽井沢というテーマで議論したのですが、軽井沢はテレワークの拠点になりますか。
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