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「快感・フレーズ」1000万部の漫画家とリーマン6兆円債務清算人はなぜ軽井沢に住むのか?

新條まゆと富川久代が語る軽井沢の光と影と波乱の人生

芳野まい 東京成徳大学経営学部准教授

目薬をさしながら寝た!

――いまは軽井沢で健康的な生活を送るお二人ですが、移住以前は、充実のいっぽうでストレスも多い生活でいらしたと思います。新條さんは漫画家。連載があるとほんとうにハードですよね。

新條 そうですね。2日間徹夜して3時間寝るみたいな生活でした。よく生きていたと思います。目薬をさそうとしたまま、寝たこともありますよ。

――目薬!

新條 眠いので、目が疲れてなくても、目薬をさすんです。あるとき、目薬を目の上にかざしたまま、寝てしまった。固まっている私にアシスタントが気が付いて、「先生、先生」って起こしたらしいです。

――仕事量は、やはり調整は難しいものですか。

新條 私が悪いんです。やれるのなら、ぎりぎりまでやろうと思っちゃう。何とかなると始めちゃうんだけど、締め切りが迫ってもアイデアが浮かばないこともあり、バーンって爆発して、もうムリとなることもありましたね。

やり過ぎて禁断のコピペに手を染めた末

――漫画家になりたい人はたくさんいるけれど、なれる人は少ない。そして『快感・フレーズ』を1000万部を売った新條さんのような売れっ子になれるのは、ほんの一握りです。大変でしょうが、きっと充実感もありますよね。

拡大新條まゆさん=長野県北佐久郡軽井沢町
新條 はい。ただ、いま思えば、やりすぎましたね。ずっと少女漫画をやってきて、小学館から出てフリーになって、仕事の幅を広げたい思ったとき、少年漫画からもオファーがあり、「やったことない」と飛びついて、色んなジャンル、いろんな雑誌を掛け持ちして連載を数本描いてました。

 紙に描くのではなく、デジタルで描いて納品するいわゆる「フルデジタル」に移行したのは、フリーになって4年過ぎた頃の2011年頃だったと思います。デジタルってやりたいことが全部できるんです。だから、余計に時間がかかっちゃった。

――やり過ぎた結果、どうなりました?

新條 ちょっと専門的になりますが、たとえば、主人公が喋っている顔があるじゃないですか。似たような顔を別のシーンでも描くことってありますよね。デジタルだと同じ顔をコピペすればできちゃう。

 私、それをやったら、漫画家をやめようって思っていたんです。人間ってまったく同じ表情はしない。似ているからといって、別のシーンの顔をコピペしたら、魂は入っていないんです。やっている作家さんはいっぱいましたが、自分はやりたくなかった。

 でも、あまりに忙しくて、コピペをしちゃったんですよ。限界を超えたんですね。その瞬間、もうやめなきゃと思った。それからは、仕事を減らし、時間的な余裕ができ、軽井沢に足を運ぶようになり、移住することになったわけです。

――じつは新條さんに初めてお目にかかったときはセミリタイアという感じだったのですが、今はまた新作を手掛けていらっしゃいます。

新條 やりたい作品があるからですが、今は自分で「ひと月にこれぐらい」と枠を決めています。テニスもやりたいし、お庭の世話もしたい。それが出来なくなったら昔と同じなので、バランスを考えるようになりました。

資金流動性レポートを作りながら抱いた無力感

――富川さんはリーマン日本法人の代表清算人の頃が一番の激務でいらしたと思いますが、振り返るといかがでしたか。

拡大富川久代さん=長野県北佐久郡軽井沢町
富川 大学を出て最初に入ったのは日本の大手証券会社でしたが、3年ほどで退職し、その後は幾つかの外資系金融会社で働きました。キャリアアップのために転職を繰り返したんです。ヘッドハントでリーマン・ブラザーズに転職したのは2008年6月。3カ月後にリーマン・ショックが起きました。

 雲行きが怪しくなった9月、日本では13、14、15日、土日月の三連休でしたが、必ず連絡がとれるようにと言われていたので、土曜日に携帯を持って美容院に行ったら連絡が入り、カットもそこそこに会社に行きました。翌日から1週間分の資金流動性レポートの提出を、日本銀行から命じられたからです。

――その資金流動性のレポートとは、具体的に何ですか?

富川 外資系金融機関は本国とその他の国の拠点の間で資金が環流しています。日本のリーマンでは主に、ニューヨークやロンドンと資金の受け払いがあるのですが、日本国内だけでの資金決済予定だけでなく、そうした海外との資金の出入りも含めて資金の動きを示すものです。

 でも、今日にもニューヨークで会社が潰れようとしているんですよ。お金が入ってくることを前提にしたレポートに意味はないのではと口にしたら、「上に報告しなくてはいけないので今まで通りの作成方法で良いのでお願いします」と言われました。なんだか無力感を感じましたね。

 三連休は家に帰れず、不眠不休で対応していました。日本銀行や財務省、金融庁との対応が私の責任でしたが、文字どおり電話が鳴りっぱなしでした。

 火曜の未明に会社幹部と日本銀行の担当者などが集まって、翌朝、マーケットが開いたときの対応を検討しました。リーマンは当時、国債の引き受けシェアが大きく、週内に国に払い込まなければいけない金額が6000億円あった。ですが、通常は入札した金額の全額を用意する必要はないのです。

 証券会社は入札した国債をその日のうちに、顧客である銀行や事業会社に売却します。その売却代金を受け取ることを前提として与信が日本銀行から与えられているので、日中200億円ほどもあれば国債の決済は可能なのですが、「今のリーマン・ブラザーズには与信は与えられない」ということで、このままでは、戦後初めて新規発行の国債の決済ができなくなる。マーケットは大荒れになると感じましたが、集まった人の多くは、何が起きるか想像すらできていない印象でした。

野村証券に移籍せず、代表清算人に

――で、朝がきた。

富川 ビジネスホテルで2時間くらい仮眠して会社に戻ってきたら、オフィスがあった六本木ヒルズの周辺はマスコミでいっぱい。その中を同僚が次々と出社してきましたが、皆、不安気でした。それでも、懸命に仕事をする姿を見て、「日本人だなあ」と思いましたね。外国だったら、みんないなくなっちゃいますよ。

――その後、日本法人の清算人になられました。

富川 破綻後、リーマンの世界各国の法人はそれぞれの国の破産法で整理されます。日本法人として生き残る方法を模索した結果、私たちが構築した知的財産であるITシステムとスタッフを野村證券に譲渡する契約が結ばれました。約1200人のうち四分の三ぐらいは移籍する道を選んだと思います。

 私もとりあえず移籍するつもりでしたが、社内の法務部門のヘッドからどうするか聞かれたとき、「どうしようかなと思っています」と答えたら、清算会社であるリーマンに残るという契約書を、その場で弁護士がつくってしまったんです。不謹慎ですが、面白そうだと感じて、その場でサインしました。

 最初の3年はほんとうに大変でしたね。読み切れないほどのメールは来るし、お客様からプレッシャーの電話はかかってくるし。不思議なことに、当時のことを今はほとんど思い出しません。人間って本当に大変だった頃の記憶は、心の奥底にしまい込むんですね。


筆者

芳野まい

芳野まい(よしの・まい) 東京成徳大学経営学部准教授

東京大学教養学部教養学科フランス科卒。フランス政府給費留学生として渡仏。東京成徳大学経営学部准教授。信州大学社会基盤研究所特任准教授。一般社団法人安藤美術館理事。一般財団法人ベターホーム協会理事。NHKラジオフランス語講座「まいにちフランス語」(「ファッションをひもとき、時を読む」「ガストロノミー・フランセーズ 食を語り、愛を語る」)講師。軽井沢との縁は深く、とくにアペリティフとサロン文化の歴史について研究している。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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