東京大学学長(藤井輝夫氏):ロシア名指し非難なし
2022年4月12日、東京大学の入学式において、藤井輝夫学長(東大及び以下で紹介する諸大学はいずれも、学内で「総長」という肩書を使っているが、本稿では「学長」で統一する。)は、式辞(注2)の中で、ロシアのウクライナ侵攻に関し、次の通り述べた(原文をそのまま引用。以下の諸大学についても同様)。
2月の終わりに突然起こった理不尽な軍事侵攻は、誰もが望んでいなかった破壊や悲劇、あたりまえの日常生活の喪失が広範に、また強引に引き起こされてしまう、世界秩序の脆さをあらわにしました。この状況は、あらためて私たちに、日常的な対立がたかまって戦争にいたるのではなく、武力の行使という戦争状態こそが、互いの対立を強め、頑なものにするとともに、人びとの不幸や憎しみを増大させ、問題の解決をいちじるしく困難なものにするということを思い起こさせました。だからこそ、厳しい対立状況のなかでも対話や交流の実践が果たす役割の大切さをあらためて見つめ直し、大学が学術の実践を通じて、こうした非常時が強いるさまざまな不幸からの脱却に、いかに貢献できるか、という問いに向きあうことがいま求められているのです。
東京大学は、いま困難のなかにある学生や家族や研究者や関係者のみなさんを支援するため、特別受け入れプログラムを開設しました。同時に「東京大学緊急人道支援基金」を立ち上げ、支援の輪を広げつつあります。こうした取り組みはまさに、一人ひとりの学びや研究の機会を確保するための学術の立場からの「ケア」であり、世界に開かれ、かつ差別から自由な知的探求の空間を構築する、という東京大学の使命を果たすことにもつながります。
「理不尽な軍事侵攻」との表現から、軍事侵攻を批判的に捉えていることは分かる。しかし、この一文には主語がない。主語は当然「ロシア」のはずである。侵攻されている対象(目的語)としての「ウクライナ」も省略されている。誰でも分かるのだから、これらの国名を省略していいのか。いや違う。ここには名指しの非難を避けるという話者の意図が反映されていると思われても仕方がない。いわば忖度である。東大学長がこの問題についてロシアに忖度しなければならない理由は何か。理解できない。
そして、「誰もが望んでいなかった破壊や悲劇、あたりまえの日常生活の喪失」との表現も気になる。果たして、「誰もが望んでいなかった」、ロシアも望んでいなかった、と言えるのか。また、「武力の行使という戦争状態こそが、互いの対立を強め、頑なものにする」という微妙な表現ぶりも、一方的な侵略を「互いの対立」にすり替え、ウクライナも「頑な」ということを意味し、いわゆる「どっちもどっち論」に配慮してバランスを取ったと解釈できなくもない。
さらに、「厳しい対立状況のなかでも対話や交流の実践が果たす役割の大切さをあらためて見つめ直し」というが、このようなありきたりの対処しか語れないのか。これでは、いじめられた児童に加害児童との仲直りの儀式を強要する小学校教員と変わらない。もっともらしいが稚拙な言説に逃げてしまっている。東大が河瀨氏を招いた理由も、今や分かってきたような気がする。

東京大学の入学式で式辞を述べる藤井輝夫総長=2022年4月12日、東京都千代田区の日本武道館
以上の通り、私見では、広い見識と深い思索が滲み出るようなメッセージにはなっていない。だが、ひょっとすると、この学長告辞を読む人の多くは、無難で大過ない文章が並んでいて、問題ないじゃないか、と受け止めるのかもしれない。仮にそうであっても、断固少数派で結構である。
東大が日本のリーダー養成を自負しているとすれば、入学早々、リーダーに上り詰めるために必要な処世術(国内外の各方面への忖度)、日本的なバランス感覚をメッセージとして伝えたということになるのではないか。しかし、上り詰めた後のリーダーシップは大丈夫か、それが問題である。とはいえ、そうした懸念には及ばないのかもしれない。入学式での学長の言葉の学生に対する影響力など、たかが知れているのだから。そう期待したい。