西郷南海子(さいごうみなこ) 教育学者
1987年生まれ。日本学術振興会特別研究員(PD)。神奈川県鎌倉市育ち、京都市在住。京都大学に通いながら3人の子どもを出産し、博士号(教育学)を取得。現在、地元の公立小学校のPTA会長4期目。単著に『デューイと「生活としての芸術」―戦間期アメリカの教育哲学と実践』(京都大学学術出版会)。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
結論を押しつける授業自体が暴力となりかねないことを自覚しよう
道徳が教科化されたことは記憶に新しい。小学校では2018年度、中学校では2019年度から「特別の教科」として位置づけられた。道徳の教科化は、第二次安倍内閣が主導した「教育再生実行会議」の提言を受けたものであり、愛国心との関わりなどが問題視されてきた。教科化に対しては、「心に成績をつけるのか」などの批判も根強い。
さて、実際の教科書はどのようなものになっているのだろうか。教科化されたことだけでなく、今日の多忙な教育現場の事情をふまえると、教科書に沿って授業を行うのが多数であると考えられる。したがって、国語の授業で「おおきなかぶ」や「モチモチの木」を読んだことが、かつて子どもだった人々にとって共通体験であるように、道徳の教科書に載っている物語がこれからの子どもたちの共通体験となっていく可能性がある。
本稿の結論を先取りして言えば、現行の道徳教科書は理性的に議論を積み重ねるタイプの教材ではなく、結論を情緒的に押し流すタイプの教材が目立っている。その極端な例が、病気の子どもの死をテーマにしたものである。
東京書籍と並んでシェア1位の日本文教出版の教科書では、小学5年、6年と連続して、小児がんでこの世を去った子どもの物語が教科書の冒頭といえる部分に配置されている。子どもが最も目にする場所にこういった物語が配置されていることは、どのような意味を持つのだろうか。それはやはり「命の大切さ」をストレートに伝えるためなのだろうか。実際のページをめくりながら検討していきたい。