反ロシア感情が西側社会に渦巻いている。ロシア映画はトロントやグラスゴーなどの映画祭から締め出され、タルコフスキーの傑作『惑星ソラリス』も著名映画サイトのトップ250映画リストから消えた。イタリアの大学ではドストエフスキーの講座が一時取り下げられる騒ぎになり、オペラやコンサートからはロシアの音楽家や楽曲が次々とキャンセルになった。国際サッカー連盟公認のビデオゲームもロシアチームを排除し、ニューヨークではアメリカ人経営の「ザ・ロシアン・ティー・ルーム」という名の老舗レストランが苦境に陥って、恵比寿の駅ではロシア語の案内表示が隠された──だからそんな狂騒の中で「坊主」と「袈裟」とを一緒くたにして「憎む」のは笑い話にしかならないと言挙げするのはとても大切だ。
けれど、もう一つ、ここでも(おそらくその多くは悪意も企図もなく)「一方的な断罪はいけない」「ロシアの言い分も聞かなければ」「何事にも100%の悪はない」と言ってしまうのはこの場合、判断の姿勢としてはまことに正しいながら、判断の結論としてはあまり正しくないようにも思われる。
昨今の日本メディアの姿勢もある。多様な意見を尊重するあまり、いや、その実あるいは、暴力的な人間たちからの面倒な抗議を回避するためだけに、両論併記にこだわって、結果、社会は「どっちもどっち論」にはまり込んで判断停止の機能不全となる。
4月12日の東大入学式で映画監督の河瀨直美さんの行った祝辞が、ロシアのウクライナ侵攻をめぐるそんな「どっちつかず」を批判する恰好の素材としてニュースになった。
「『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」

東京大学の入学式で祝辞を述べる映画監督の河瀬直美さん=2022年4月12日、日本武道館
河瀨さんのこの論立てにも背景があるのかもしれない。昨年末のNHK(BS)の番組『河瀨直美が見つめた東京五輪』で、五輪反対デモの参加者が金銭をもらって動員されたとする偽りの内容の字幕が流された問題。東京五輪の記録映画の監督として「開催反対派の人たちへ反感や偏見がある」とかねて批判されていた河瀨さんは、ここでも番組の被取材者ではあるものの一定の説明責任があるのではないかと詰め寄られた。「一方的な批判」と厭うたろうその経験からまだ間もない。