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沖縄2022 衣料からみえる戦後史、洋裁が女性たちを支えた

復帰50年―那覇の市場から②

橋本倫史 ノンフィクションライター

戦後、北部の村にミシンの講習所

 那覇の「まちぐゎー(市場)」には、迷路のように路地が張り巡らされている。車ではアクセスしづらい立地だが、もしもレンタカーで訪れる場合、僕がよく利用する駐車場のひとつは浮島通り沿いにある新天地第1コイン駐車場だ。

 名前にある「新天地」とは、2011年までこの一帯に広がっていた新天地市場に由来する。

新天地市場跡地の駐車場=那覇市牧志、筆者撮影
いまも残る、新天地市場本通りの看板=2022年4月、筆者撮影

 ここに衣料品を扱う新天地市場がオープンしたのは、1953年のこと。その経緯は、謝花直美『戦後沖縄と復興の「異音」 米軍占領下 復興を求めた人々の生存と希望』(有志舎)に詳しい。

 そこにはかつて湿地帯が広がっており、「既製品屋」と呼ばれた女性たちが品物を広げ立ち売りを行っていた。近くに農連市場や公設市場が整備され始めた時代に、土地所有者が私設市場を整備し、新天地市場がオープンする。

 洋裁の普及は、戦後沖縄の復興と深い関わりがある。

 『戦後沖縄と復興の「異音」』によると、〈着のみ着のままで米軍に保護された人々に与えられた服は、米軍が上陸直後から着手した「サルベージ」と呼ぶ作業で集められたものだった〉。

 サルベージとは、日本軍の秘匿物資や住民が住宅や壕に残していた衣類を拾い集め、衣服を確保することを指す。捕虜となったひとびとが暮らす住民収容地区は北部に集中していたが、終戦後にひとびとが中南部に帰還し生活が落ち着き始めると、北部の各村ではミシン部やミシン講習所が立ち上げられた。

 当時、本部半島には米軍駐屯地が点在していた。そこで働けば賃金を得ることもできたが、そうした場所で女性が働くことには危険もつきまとった。戦争未亡人を含む女性たちが安心して働くことができるようにと、洋裁を学べる場所が作られたのだ。

 羽地村(はねじそん、現在は名護市北西部)にあった村立洋裁学校の1期生だった仲間トミさんは、同級生の中では最年少となる16歳で洋裁を学んだ。そこで学んだのは初歩的な技術に過ぎなかったが、「学んだという自信が、『農村に埋もれたままではいけない』という気持ちにつながり」、20歳で郷里を離れ、洋裁店に就職したという。

 ※本部町立博物館で開催中(6月30日まで)の写真展「1945年 本部 Donn Cuson Collections-1945 MOTOBU」では、終戦直後に撮影された貴重な写真が閲覧できる。

 〈沖縄2022 復帰50年―那覇の市場から① 変わりゆく「台所」と「観光」というまなざし〉こちら

「既製品屋」が繁昌、ムームーの流行

 デザインを施した安価な衣服は「既製品」と呼ばれ、那覇のガーブ川沿いで販売されていた。かつては一様に闇市だった場所が、復興とともに市場や店舗として整備されるにつれ、立ち売りは排除されるようになり、商売には不向きな場所へと追いやられ始めていた。そんな「既製品屋」の居場所として、新天地市場が整備された。

 そこで最初に商いをしたひとびとの多くは、米軍の飛行場や駐屯地として農地を接収された本部半島出身者だった。

 市場中央通りにあった「江島商店」の江島とも子さんは、かつて新天地市場で商いをしていたひとりだ。1934年に久米島で生まれたとも子さんは、学校を出ると那覇に出て、平和通りのレストラン「アサヒ」で数年間働いたのち、洋裁の仕事を始めた。

「江島商店」と店主の江島とも子さん=2019年9月、筆者撮影
 「あの当時はね、洋裁で作ったものがよく売れてましたよ。まだ物がない時代だから、晴れ着というより普段着。沖縄柄の生地を仕入れてきて、それを裁断して、縫子さんにブラウスを作らせる。出来上がった洋服を持って新天地市場に行くと、午前中には皆売れてました。それでまた布を仕入れて、裁断して、縫子に持たせて。今振り返ると夢みたいに思うほど、とにかく忙しかったですね」

 江島とも子さんはやがて、ガーブ川の上に板を渡して商売をしていた女性からスカウトされ、一緒に商いを始める。氾濫を繰り返していたガーブ川は暗渠化され、1965年に水上店舗という近代的なビルが建設された。とも子さんは女性から場所を引き継ぐ形で、「江島商店」をオープンする。

 この時代、沖縄の衣料事情に関する変化が生まれつつあった。それは、ムームーの流行である。1967年8月10日の琉球新報には、「愛用者増えるムームー」と題した記事が掲載されている。

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