復帰50年―那覇の市場から③
2022年05月15日
那覇の市場(まちぐゎー)に生きる人々との対話を通して、復帰50年の沖縄を見つめる連載、3回目です。今回は、離島から那覇に渡った人たちの戦後を紹介します。
1回 変わりゆく「台所」と「観光」というまなざし
2回 衣料からみえる戦後史、洋裁が女性たちを支えた
那覇の市場界隈で取材を重ねていると、やんばる(沖縄本島北部)や離島から那覇にやってきたという方と出会うことが多々ある。前回の記事で紹介した、かつて市場中央通りで「江島商店」を営んでいた江島とも子さんも離島出身だ。
「生まれはね、久米島」
「久米島はね、農村なんですよ。うちで蚕なんかも養っていて、小さい頃から仕事を手伝ってましたよ。田植えをしたり、芋掘りしたり。私は昭和9年(1934年)の生まれで、きょうだいも多かったから。貧しいというのかね、あの頃は生活も大変でしたよ」
当時の録音テープを聞き返すと、そんな話を笑いながら聞かせてくれる声が記録されている。
とも子さんは八名きょうだい(※)の次女として、弟たちの面倒を見ながら暮らしていた。中学を卒業すると、沖縄本島に暮らしていた従姉妹を頼って那覇に出た。最初のうちは、平和通りにあった「レストランアサヒ」でウェイトレスとして働いていたものの、従姉妹のお姉さんから「いつまでも今のままではいけないね」と言われ、洋裁学校に通い始める。従姉妹のお姉さんが洋裁の仕事をしていた縁もあり、とも子さんも洋裁を学んで、公設市場の向かいにお店を構えるまでに至ったのだ。
※兄弟姉妹の人数を言う時、沖縄の方たちはよく「何名きょうだい」と表現します。
とも子さんの営む「江島商店」があった場所から50メートルほどの距離、同じく公設市場の向かいに位置する「小禄青果店」を切り盛りする小禄悦子さんもまた、離島出身だ。
「うちが生まれたのは、粟国島(あぐにじま)なんですよ。分家のさらに分家だったから、畑もいいの持たないし、何を育てても駄目なんです。粟国島というのはね、岸壁になっているから、何育てても駄目なんですよ。蚕を育てたり、マース(塩)を作ったり、いろんなことやってましたけど、ひもじい思いばかりしてきました」
音声を聞き返すと、悦子さんもまた、笑いながら当時を振り返っている。
とも子さんは昭和9年生まれであるのに対し、悦子さんは昭和17年(1942年)生まれ。ひと世代下になるけれど、いずれも戦中・戦後に幼少期を過ごしたという点では共通する。
ふと、現在放送中のNHK連続テレビ小説『ちむどんどん』を思い出す。
主人公の暢子は、やんばるのサトウキビ農家の次女だ。1964年に10歳という設定だから、昭和23年か24年生まれということになる。悦子さんよりも、さらにひとまわり下の世代だ。
『ちむどんどん』の第2話に、「とうふ砂川」の智(さとる)が登場する。智は父親と死に別れ、祖父を頼ってやんばるにきたものの、祖父も亡くなり、母親も病気で寝込んでいる。智の弟や妹は、「毎日豆腐と芋ばっかり」とこぼしている。それを見かねた主人公の暢子の母・優子は、こどもたちに食事を分け与える。お裾分けとしてもらった魚の煮付けやお刺身といったご馳走も、自分たちで食べるのではなく、砂川家に届けてあげようと提案する。「もし――もしもお父ちゃんとお母ちゃんが病気になって働けなくなったら、皆も同じように困るんだよ」と。
この時代に生活に困っていたのは、両親が病気で働けなくなった世帯だけだったのだろうか。
やんばるや離島といった地域で、1950年代生まれの人たちに話を聞かせてもらっていると、「小さい頃は芋ばかり食べていた」という話をよく耳にする。「もはや戦後ではない」という言葉が流行したのは1956年のことだが、アメリカによる統治が続いていた沖縄では、1960年代に入っても戦後が続いていたように感じる。
「昔は1カ月でも船が入らんときがあるさ。そうすると食べるものもなくなって、一杯のうどんを兄妹で分けて食べたこともありましたよ」
悦子さんは当時を振り返る。
「だから、うちの母はこどもたちを絶対遊ばさなかった。なんでも『自分でやりなさい』と。水がない島だからね、まずは水汲み。洗濯も、潮が引いたときに池みたいに溜まるところがあるから、洗濯物をいっぱい頭に乗せて、そこで洗って、乾くあいだに泳いでくるわけさ。中学になってからはね、芋を掘ってから学校に行きよったですよ。そうしないと食べるものがないから。ひもじい思いをいっぱいしてきましたよ」
悦子さんは七名きょうだいの次女だった。中学を卒業すると、兄や姉は島を出て、沖縄本島に出ていた。弟たちを学校に通わせるお金を稼ごうと、悦子さんは中学卒業を待たず、牧志公設市場の近くにある履物店で働いていた姉・ハツさんを頼って那覇に出た。
こうして悦子さんは、姉・ハツさんの結婚相手の親戚が営んでいた青果店で働き始める。その青果店は牧志公設市場にあるお店だった。
「農連市場で仕入れてきて、ごぼうを売ったり、野菜を売ったり――おばあちゃん連中から教えてもらうから、強くなりましたよ」
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