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沖縄2022 故郷を離れ働いてきた人たちの戦後

復帰50年―那覇の市場から③

橋本倫史 ノンフィクションライター

食料確保にも苦労した離島の暮らし

 やんばるや離島といった地域で、1950年代生まれの人たちに話を聞かせてもらっていると、「小さい頃は芋ばかり食べていた」という話をよく耳にする。「もはや戦後ではない」という言葉が流行したのは1956年のことだが、アメリカによる統治が続いていた沖縄では、1960年代に入っても戦後が続いていたように感じる。

拡大粟国島の地図(上)と空から見た粟国島=2008年、朝日新聞社機から撮影
 「小禄青果」の悦子さんが生まれ育った粟国島は、那覇市からおよそ60キロ北西に位置する。現在では定員180名の立派な定期船「フェリー粟国」が那覇の泊港と粟国島を結んでいるが、悦子さんが幼かった頃は小さな船しかなく、北風が吹きつける冬場には船が運航できない日が続くこともあったという。船が入らなければ、島の外から運ばれてくるはずの食料品や生活必需品も途絶えてしまう。

 「昔は1カ月でも船が入らんときがあるさ。そうすると食べるものもなくなって、一杯のうどんを兄妹で分けて食べたこともありましたよ」

 悦子さんは当時を振り返る。

 「だから、うちの母はこどもたちを絶対遊ばさなかった。なんでも『自分でやりなさい』と。水がない島だからね、まずは水汲み。洗濯も、潮が引いたときに池みたいに溜まるところがあるから、洗濯物をいっぱい頭に乗せて、そこで洗って、乾くあいだに泳いでくるわけさ。中学になってからはね、芋を掘ってから学校に行きよったですよ。そうしないと食べるものがないから。ひもじい思いをいっぱいしてきましたよ」

 悦子さんは七名きょうだいの次女だった。中学を卒業すると、兄や姉は島を出て、沖縄本島に出ていた。弟たちを学校に通わせるお金を稼ごうと、悦子さんは中学卒業を待たず、牧志公設市場の近くにある履物店で働いていた姉・ハツさんを頼って那覇に出た。

拡大小禄青果店=2019年4月撮影
 「最初はね、琉球大学の先生のおうちに住み込みで入ったんですよ。家政科の先生だから、厳しかった。お料理もちゃんとやりなさい、掃除もきれいにやりなさいで、外出する暇もなかった。そこで3年ぐらいお世話になって、今度は軍メイドの仕事。そこで働いているときに、お姉さんが『軍に置いたら駄目』と。それだったら商売を習いなさいと言われて、紹介されたのが青果店だったわけ」

 こうして悦子さんは、姉・ハツさんの結婚相手の親戚が営んでいた青果店で働き始める。その青果店は牧志公設市場にあるお店だった。

 「農連市場で仕入れてきて、ごぼうを売ったり、野菜を売ったり――おばあちゃん連中から教えてもらうから、強くなりましたよ」

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筆者

橋本倫史

橋本倫史(はしもと・ともふみ) ノンフィクションライター

1982年、広島県東広島市生まれ。著書に『ドライブイン探訪』『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場の人々』『東京の古本屋』。最新刊は『水納島再訪』(講談社)。琉球新報にて「まちぐゎーひと巡り」、JTAの機内誌『Coralway』で「家族の店」を連載中。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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