松下秀雄(まつした・ひでお) 朝日新聞山口総局長・前「論座」編集長
1964年、大阪生まれ。89年、朝日新聞社に入社。政治部で首相官邸、与党、野党、外務省、財務省などを担当し、デスクや論説委員、編集委員を経て、2020年4月から言論サイト「論座」副編集長、10月から編集長。22年9月から山口総局長。女性や若者、様々なマイノリティーの政治参加や、憲法、憲法改正国民投票などに関心をもち、取材・執筆している。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「反日」「売国」が飛び交う時代、沖縄と「本土」に橋を架ける言論を私は紡げるか?
時々、取材にいくだけで、沖縄で暮らしたこともない私が「復帰50年」を論ずるなんて、おこがましいにもほどがある。それは承知している。
ただ、「論ずる」以前の問題として、わずかな取材の中で見聞きし、感じたことを「伝える」ことさえ、満足にできなかったという後悔がある。
たとえば、沖縄に通う前の私にとって、「復帰」という言葉は「再び日本に帰属する」という程度の意味でしかなかった(施政権や潜在主権という言葉も知らなかった)。
実際には、それだけでは収まらない意味や思いが込められていると、のちに知ることになる。
沖縄の人たちはなぜ、どこへ復帰しようとしたのか。
私と同様、沖縄で暮らしたことのない人たちにとって、「復帰50年」の節目に必要な情報はその点ではないのか。いま、この「論座」でなら書けるんじゃないか。そんな思いから、本稿の執筆を思い立った。
もちろん、沖縄の人たちも人それぞれ。すべてを俯瞰して「なぜ、どこへ復帰しようとしたか」を論じるのは私の手に余る。ここでは主に、2013年暮れと14年の年始、故大田昌秀・元沖縄県知事に取材した時の話を紹介したい。
大田さんも、当時まだ那覇市長だった故翁長雄志・前知事に取材した時もそうだったけれど、おふたりは歴史の話にそうとうの時間を割いた。沖縄に長く暮らしている記者ならともかく、よそものが訪ねていったのだから、そこから話さないと伝わらない、理解できないと感じたのだと思う。
まず、沖縄の人びとが「復帰」を願うようになるまでの歴史にかかわる、大田さんの言葉を紹介しよう。
当初、沖縄県民の米軍に対する態度は、好意的で、友好的で、感謝の気持ちをもっていました。なぜかというと、戦時中、旧日本軍ではなく米軍に命を救われたからです。各戦闘部隊に『軍政要員』が10人から15人くらいついてきて、沖縄の住民を安全な場所に移す任務を担っていた。この人たちがいなかったら住民の犠牲はもっと増えていたと思います。
戦後の沖縄では、住む場所も着るものもなかった。米軍がテントを払い下げ、食料品や医薬品、衣類を無償で配給したから、やっと命をつなぐことができたんです。
大田さんは師範学校生のとき、「鉄血勤皇隊」の一員として、銃と120発の銃弾、2個の手榴弾を与えられて従軍、あやうく命を落としかけた経験をもつ。皇民化教育を受け、天皇のため、国のために命を捧げるという考え方に「骨がらみ」にされていたという。
けれど、実際の戦場は「聖戦」とはほど遠かった。日本軍は住民とともに南部に追い詰められ、日本兵が行き場のない住民を壕から追い出して自分が壕に入ったり、赤ちゃんが泣くと所在がばれるので赤ちゃんを殺したりする姿を「毎日のように」目にした。
戦後は収容所に収容され、米軍払い下げのテントでつくった小屋で暮らした経験もある。そんな実体験から、米軍に「好意的、友好的」になったひとりだったのだろう。