北野隆一(きたの・りゅういち) 朝日新聞編集委員
1967年生まれ。北朝鮮拉致問題やハンセン病、水俣病、皇室などを取材。新潟、宮崎・延岡、北九州、熊本に赴任し、東京社会部デスクを経験。単著に『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』。共著に『私たちは学術会議の任命拒否問題に抗議する』『フェイクと憎悪 歪むメディアと民主主義』『祈りの旅 天皇皇后、被災地への想い』『徹底検証 日本の右傾化』など。【ツイッター】@R_KitanoR
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「追悼の集い」で語られた、軍事独裁政権下の「韓国からの通信」執筆秘話
朝鮮思想史に詳しい宗教哲学者で東京女子大の元教授、池明観(チ・ミョングァン)さんをしのぶ「追悼の集い」が5月14日、東京都文京区の富坂キリスト教センターで開かれた。日韓両国を結んでオンラインで中継され、200人近い人々がリモート視聴の形で参加した。
池さんは日本滞在中の1973年から1988年まで岩波書店「世界」に「T・K生」の筆名で15年間連載した「韓国からの通信」で韓国の軍事独裁政権を告発し、民主化運動を支援した。その後も長らく正体不明だった「T・K生」が自分であることを、2003年に初めて明らかにした。1993年に韓国に戻り、日韓の文化交流に尽くした。
今年1月1日に97歳で死去。「追悼の集い」には池さんをしのぶ日韓の友人や教え子らの言葉が次々と寄せられ、韓国の民主化を求めて日韓をはじめ各国の人々が国際的に連帯した1970~80年代の息吹を現代に伝えていた。
池さんは1924年、日本支配下にあった朝鮮半島北部の平安北道生まれ。3歳で父を亡くして母との貧しい生活に苦しみながら育ち、1945年の日本降伏による朝鮮解放のときは国民学校(小学校)教師だった。
自由に学べる環境を求め、38度線を越えて1947年に朝鮮半島南部へ。1950年に韓国陸軍に入隊し、通訳将校などとして朝鮮戦争下での戦場生活を送り、1955年に除隊となった。高校教師となり校長を務めるが、1961年の軍事クーデター後に政権についた朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の軍事独裁政権を批判する言論活動が当局ににらまれ、1964年に退職。月刊誌「思想界」の主幹となるが、当局に弾圧されて1970年、廃刊に追い込まれる。亡命するように1972年に来日した。
「追悼の集い」で韓国から追悼文を朗読した李三悦(イ・サムヨル)・韓国対話文化アカデミー理事長によると、池さんは朝鮮戦争に動員され「同族同士の殺戮戦で残酷な死を目撃した後、生命尊重の思想と人道主義の倫理に深い関心を持つようになった」。軍事独裁政権に対する批判言論が抑え込まれて韓国での活動拠点を失い、「自由な日本で亡命知識人として生きるという険しい道を歩むことになった」という。
岩波書店の月刊誌「世界」の安江良介編集長と出会い、1973年5月号から「T・K生」の筆名で「韓国からの通信」の掲載を始めた。この年の8月に野党指導者の金大中(キム・デジュン)氏が東京のホテルから拉致されソウルで発見された「金大中拉致事件」をきっかけに、「世界」10月号から毎月連載されるようになった。韓国が民主化を果たした1988年3月号まで続いた。