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市民による日韓交流を体現した「T・K生」池明観さん

「追悼の集い」で語られた、軍事独裁政権下の「韓国からの通信」執筆秘話

北野隆一 朝日新聞編集委員

 朝鮮思想史に詳しい宗教哲学者で東京女子大の元教授、池明観(チ・ミョングァン)さんをしのぶ「追悼の集い」が5月14日、東京都文京区の富坂キリスト教センターで開かれた。日韓両国を結んでオンラインで中継され、200人近い人々がリモート視聴の形で参加した。

 池さんは日本滞在中の1973年から1988年まで岩波書店「世界」に「T・K生」の筆名で15年間連載した「韓国からの通信」で韓国の軍事独裁政権を告発し、民主化運動を支援した。その後も長らく正体不明だった「T・K生」が自分であることを、2003年に初めて明らかにした。1993年に韓国に戻り、日韓の文化交流に尽くした。

池明観さん=2005年5月、京都市で池明観さん=2005年5月、京都市で

 今年1月1日に97歳で死去。「追悼の集い」には池さんをしのぶ日韓の友人や教え子らの言葉が次々と寄せられ、韓国の民主化を求めて日韓をはじめ各国の人々が国際的に連帯した1970~80年代の息吹を現代に伝えていた。

韓国軍事独裁政権を批判、弾圧受け日本へ

 池さんは1924年、日本支配下にあった朝鮮半島北部の平安北道生まれ。3歳で父を亡くして母との貧しい生活に苦しみながら育ち、1945年の日本降伏による朝鮮解放のときは国民学校(小学校)教師だった。

 自由に学べる環境を求め、38度線を越えて1947年に朝鮮半島南部へ。1950年に韓国陸軍に入隊し、通訳将校などとして朝鮮戦争下での戦場生活を送り、1955年に除隊となった。高校教師となり校長を務めるが、1961年の軍事クーデター後に政権についた朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の軍事独裁政権を批判する言論活動が当局ににらまれ、1964年に退職。月刊誌「思想界」の主幹となるが、当局に弾圧されて1970年、廃刊に追い込まれる。亡命するように1972年に来日した。

韓国の軍事独裁政権を率いた朴正熙大統領=1970年代撮影、東亜日報提供韓国の軍事独裁政権を率いた朴正熙大統領=1970年代撮影、東亜日報提供

 「追悼の集い」で韓国から追悼文を朗読した李三悦(イ・サムヨル)・韓国対話文化アカデミー理事長によると、池さんは朝鮮戦争に動員され「同族同士の殺戮戦で残酷な死を目撃した後、生命尊重の思想と人道主義の倫理に深い関心を持つようになった」。軍事独裁政権に対する批判言論が抑え込まれて韓国での活動拠点を失い、「自由な日本で亡命知識人として生きるという険しい道を歩むことになった」という。

 岩波書店の月刊誌「世界」の安江良介編集長と出会い、1973年5月号から「T・K生」の筆名で「韓国からの通信」の掲載を始めた。この年の8月に野党指導者の金大中(キム・デジュン)氏が東京のホテルから拉致されソウルで発見された「金大中拉致事件」をきっかけに、「世界」10月号から毎月連載されるようになった。韓国が民主化を果たした1988年3月号まで続いた。

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秘密裏に持ち出された資料で毎月「通信」を執筆

 日本滞在中、「T・K生」としての秘密の執筆活動については、名乗り出た後に池さんが「世界」への寄稿やインタビュー、著書で振り返っている。「ソウルからの発信と書かれていたが、実は東京の私のアパートで書かれたもの」だったと告白。匿名にしたのは「韓国の軍事支配体制の監視の目が日本においても光っていた」からであり「韓国に残っている私の家族を守るため」だったと説明している。

光州事件。バスを挟んで軍と向き合うデモ隊=1980年5月、韓国・光州、東亜日報提供光州事件。バスを挟んで軍と向き合うデモ隊=1980年5月、韓国・光州、東亜日報提供
 「韓国からの通信」には、朴正熙大統領暗殺、光州事件、ラングーン事件など韓国の政治情勢が次々と盛り込まれた。

 インターネットもeメールもない時代。郵便物は開封・検閲され、電話は盗聴されてしまう。資料は、危険を冒して韓国入りした日本人や米国人、ドイツ人、カナダ人などの外国人宣教師らにより秘密裏に韓国から持ち出され、欧米や日韓のキリスト教関係者の国際的なネットワークを経て、日本の池さんのもとへ届けられた。韓国内の民主化運動団体の声明文や、集会や大学でまかれたビラなどだった。

 池さんは隅谷三喜男・東京女子大学長(当時)らの尽力で東京女子大教授となり、和田春樹・東大名誉教授ら日韓の大学教授やキリスト教関係者、とくに呉在植(オ・ジェシク)氏ら、日本などの各国にいる在外韓国人や在日コリアンの支援を受けた。

 「追悼の集い」でも、関西で交流した在日韓国基督教会館の李清一(イ・チョンイル)名誉館長や、沖縄で交流した高里鈴代・元那覇市議らが、各地を訪れた際の池さんの姿をそれぞれ語った。ピアニストの崔善愛(チェ・ソンエ)さんは、北九州で父の崔昌華(チォエ・チャンホア)牧師が池さんと交流した思い出を語り、ショパン「別れの曲」を演奏した。

公衆電話から短時間の通話、受け渡しは駅のホーム

 1978年から6年半、「世界」編集部で池さんとの資料や原稿のやりとりを担当した山口万里子さんも「追悼の集い」で当時を回想した。

 池さんは韓国から届いた資料をもとに原稿をまとめる「アンカーマン」の役目。200字詰め原稿用紙50~70枚の原稿を毎回、一晩で一気に書き上げた。原稿ができると、公衆電話で山口さんに連絡してきた。盗聴の恐れもあり、会話は必要最小限。「あ、どうも」とあいさつして「30分後に」とか「何時に」「すぐに」とだけ言うとすぐ切れた。

「追悼の集い」で語る元「世界」編集部員の山口万里子さん=2022年5月14日、東京都文京区「追悼の集い」で語る元「世界」編集部員の山口万里子さん=2022年5月14日、東京都文京区

 受け渡し場所は、池さんが早稲田に住んでいたときは江戸川橋。京王線明大前駅近くに移ってからは駅のホーム。原稿は書店の紙袋や日本基督教団事務局の封筒に入っていたという。

 山口さんらは原稿を受け取ると、印刷所に持ち込み、別の原稿用紙に書き写した。池さんの筆跡と文章のくせを直し、筆者が特定できないようにするためだった。「世界」編集部では「先生」とだけ呼び、実名で呼ばないようにしていた。

 「世界」は韓国では禁書扱いを受けていたが、さまざまなルートで韓国にひそかに持ち込まれ、多くの人々に読まれた。韓国当局が筆者の「T・K生」を必死に捜すなか、池さんは尾行をかわしながら連載を続けた。

 池さんは以下のように語っていたという。

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