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沖縄2022 水納島、美しきクロワッサン・アイランド

復帰50年―那覇の市場から④

橋本倫史 ノンフィクションライター

レンタカーを走らせ、水納島へ

 那覇の市場界隈には、いたるところにアーケードが張り巡らされている。このアーケードが整備されたのは、1970年代に入ってからのこと。きっかけとなったのは、ダイエーが那覇に進出する計画が持ち上がったことだった。

 全国チェーンのスーパーマーケットがオープンすると、これまで商店街に足を運んでくれたお客さんを奪われてしまうのではないか――スーパーマーケットが全国各地に増えていった時代には、そうした声が全国各地であがり、スーパーマーケット建設への反対運動も巻き起こっている。

 沖映通りにダイエーが「那覇ショッパーズプラザ」をオープンしたときにも、顧客が奪われるのではないかと、市場界隈の店主たちは危惧したという話をよく耳にする。どうにか顧客を繋ぎとめようと、店主たちは資金を出し合い、アーケードの整備を進めてゆく。

 アーケードがあるおかげで、強い陽射しも急な雨も気にせず、買い物客や観光客はのんびり界隈を散策することができる。市場界隈の取材を始めてからは、毎月那覇に足を運び、昼間はずっとアーケードの下をぐるぐる歩き続けてきた。だから、たまにレンタカーを借りてアーケードの外に出てみると、細い路地が張り巡らされている市場界隈との違いにくらくらする。そこには広々とした道路があり、青い海が広がり、太陽が照りつけている。

 今では各地にショッピングセンターがあり、広大な無料駐車場がある。那覇から名護までは高速道路が整備されており、西海岸にはリゾートホテルが建ち並んでいる。どれもこれも、市場界隈で目にする風景とは対照的に感じられる。

 レンタカーを走らせて向かう先は、大抵の場合水納島(みんなじま)だった。

 水納島とは、沖縄本島北部の本部半島沖にある小さな島だ。三日月のような形をしていることから「クロワッサン・アイランド」の愛称でも知られ、美しい海と砂浜が広がっている。美ら海水族館にもほど近い渡久地港から定期船で15分の距離にあり、1時間もあれば歩いて一周できる、絵に描いたような南の島である。ビーチでは各種マリンアクティビティを楽しめることもあって、年間7万人近い観光客で賑わう。

沖縄本島北部の本部半島沖にある水納島。クロワッサンのような形をしている=1991年、朝日新聞社機から
水納島のビーチ=筆者撮影

開墾から始まった水納島のくらしの歴史

 僕は2015年に偶然この島を訪れて以来、「いつかこの島を取材したい」と思っていたわけでもないのに、毎年のように足を運んできた。

 去年の春、少し長めの滞在をした際に出会った一言がきっかけとなり、この島のことを書き記さなければという思いに駆られ、「水納島再訪」というタイトルで『群像』で短期集中連載をして、今年の春に一冊の本として出版することになった。

 水納島の開拓が始まったのは明治23(1890)年のこと。それまで無人島だった水納島に、4キロほど離れた場所にある瀬底島に暮らす人たちが渡り、開墾して芋を植えている。芋は豊かに実り、耕作に適した土地だと判明すると瀬底の人たちは船で往復しながら農業を続けていたが、やがて水納島に定住する人も現れ始める。家系図をたどると、土地を相続できない次男や三男が水納島に移り住んでいる。

 水納島も瀬底島も、半農半漁で生活が営まれてきた。ふたつの島がある本部町はカツオ漁で知られ、いくつか漁村があるものの、多くの集落は農業で生計を立ててきた。

 そこに変化の兆しが見えたのは、沖縄が復帰を果たした頃のこと。1972年5月25日――つまり復帰の10日後、国際博覧会事務局は沖縄国際海洋博覧会の開催を決定する。読谷村や糸満市、慶良間諸島や先島諸島なども候補に挙げられたが、最終的な開催地に選ばれたのは本部半島だった。1975年の海洋博開催を目指して、沖縄本島は「改造」されてゆく。

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