「わたしはもう一度生まれた~脳塞栓症にかかった人類学者の新たな研究テーマ」の反響
「論座」ということばに私が思い浮かべるのは、いろりを囲んで座り、語りあい、論じあう光景です。ゆったりと時間が流れるその場には、相手を「論破する」「言い負かす」ような論じ方は似合いません。互いの言葉に耳を傾け、相手を知ろう、なにがしかのことを学ぼうとする。そんな建設的な議論の場を、論座でもつくっていけたらと考えています。
そのための試みとして、論座で公開した論考に対する反響のうち、編集部員が心を動かされた文章や優れた論を、ご本人の了解を得たうえでご紹介していきます。
こちらは、三谷雅純さんの連載「〈障害者〉と創る未来の景色」の初回「わたしはもう一度生まれた~脳塞栓症にかかった人類学者の新たな研究テーマ」(5月29日公開)や、三谷さんの論考を紹介する私のコラムに対して、福祉施設を運営する高崎明さんが寄せてくださったものです。
読者のみなさまも、論の座に座り、論じあいませんか。info-ronza@asahi.com にメールでいただければ幸いです。よろしくお願い申し上げます。「論座」編集長 松下秀雄
こんにちは、NPO法人ぷかぷかの高崎です。横浜で「ぷかぷか」という福祉施設を運営しています。
「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいいよ」「その方がトク!」と言い続けています。彼らは社会を耕し、豊かにする人達です。それは「ぷかぷか」が作ってきたたくさんの物語を見てもらうとすぐにわかります。アート屋わんどで作ってきたものを見てもわかります。
つい先日、神奈川県立の福祉施設での虐待事件が報道されました。
・服薬用に水などに塩や砂糖が入れられた。
・利用者の肛門にナットが入っていた。
・利用者に数百回のスクワットをさせた。
・職員の粗暴行為で利用者が頭を打ち失神した。
・利用者の食事に多量のシロップをかけて食べさせた。
いずれも気分が悪くなるような事案です。ふつう、人間はこんなことはしません。
介護の現場にいるのは人間のはずですが、虐待の実態を見る限り、そこにはもう人間を感じることができません。
厚生労働省が「障害者福祉施設等における障害者虐待の防止と対応の手引き(施設・事業所従事者向けマニュアル)」というのを出しています。人間が人間でなくなっている現場で、こんなマニュアルがどれだけ役に立つのだろうかと思います。現場の荒廃のレベルの認識が甘いのではないかと思います。虐待の現場になっている神奈川県でさえ、このマニュアルを県のホームページに揚げています。こんなことやって虐待がなくなると本気で思っているのでしょうか?
重度障がいの人たちを相手にする現場がどうしてこんなにもすさんでしまったのか。そのことにきちんと向き合っていかない限り、虐待はいつまでたってもなくなりません。向き合ってないからこそ、あのやまゆり園事件以降も、一向に虐待がなくならないのだろうと思います。
事件の直後から「支援」という上から目線こそが事件を引き起こしたのではないかと私は言い続けています。虐待の事件を受けて、あらためて、相手を蔑むところから出発している「支援」という関係の問題性を思います。
相手を蔑むことは、蔑む側の人間の荒廃を産みます。こいつらには何やっても許される、みたいな……。
「利用者の肛門(こうもん)にナットが入っていた」などという事例は、その際たるものです。人間のすることではありません。これはもう「虐待」といったレベルではなく「犯罪」です。どうして「犯罪」として追求しないのでしょうか?ここにも社会の大きな問題があるように思います。
福祉の現場で「人間を回復する」「人の心を取り戻す」、その当たり前のことをするためにはどうすればいいのか。