「わたしはもう一度生まれた~脳塞栓症にかかった人類学者の新たな研究テーマ」の反響
2022年07月05日
「論座」ということばに私が思い浮かべるのは、いろりを囲んで座り、語りあい、論じあう光景です。ゆったりと時間が流れるその場には、相手を「論破する」「言い負かす」ような論じ方は似合いません。互いの言葉に耳を傾け、相手を知ろう、なにがしかのことを学ぼうとする。そんな建設的な議論の場を、論座でもつくっていけたらと考えています。
そのための試みとして、論座で公開した論考に対する反響のうち、編集部員が心を動かされた文章や優れた論を、ご本人の了解を得たうえでご紹介していきます。
こちらは、三谷雅純さんの連載「〈障害者〉と創る未来の景色」の初回「わたしはもう一度生まれた~脳塞栓症にかかった人類学者の新たな研究テーマ」(5月29日公開)や、三谷さんの論考を紹介する私のコラムに対して、福祉施設を運営する高崎明さんが寄せてくださったものです。
読者のみなさまも、論の座に座り、論じあいませんか。info-ronza@asahi.com にメールでいただければ幸いです。よろしくお願い申し上げます。「論座」編集長 松下秀雄
こんにちは、NPO法人ぷかぷかの高崎です。横浜で「ぷかぷか」という福祉施設を運営しています。
「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいいよ」「その方がトク!」と言い続けています。彼らは社会を耕し、豊かにする人達です。それは「ぷかぷか」が作ってきたたくさんの物語を見てもらうとすぐにわかります。アート屋わんどで作ってきたものを見てもわかります。
つい先日、神奈川県立の福祉施設での虐待事件が報道されました。
・服薬用に水などに塩や砂糖が入れられた。
・利用者の肛門にナットが入っていた。
・利用者に数百回のスクワットをさせた。
・職員の粗暴行為で利用者が頭を打ち失神した。
・利用者の食事に多量のシロップをかけて食べさせた。
いずれも気分が悪くなるような事案です。ふつう、人間はこんなことはしません。
介護の現場にいるのは人間のはずですが、虐待の実態を見る限り、そこにはもう人間を感じることができません。
厚生労働省が「障害者福祉施設等における障害者虐待の防止と対応の手引き(施設・事業所従事者向けマニュアル)」というのを出しています。人間が人間でなくなっている現場で、こんなマニュアルがどれだけ役に立つのだろうかと思います。現場の荒廃のレベルの認識が甘いのではないかと思います。虐待の現場になっている神奈川県でさえ、このマニュアルを県のホームページに揚げています。こんなことやって虐待がなくなると本気で思っているのでしょうか?
重度障がいの人たちを相手にする現場がどうしてこんなにもすさんでしまったのか。そのことにきちんと向き合っていかない限り、虐待はいつまでたってもなくなりません。向き合ってないからこそ、あのやまゆり園事件以降も、一向に虐待がなくならないのだろうと思います。
事件の直後から「支援」という上から目線こそが事件を引き起こしたのではないかと私は言い続けています。虐待の事件を受けて、あらためて、相手を蔑むところから出発している「支援」という関係の問題性を思います。
相手を蔑むことは、蔑む側の人間の荒廃を産みます。こいつらには何やっても許される、みたいな……。
「利用者の肛門(こうもん)にナットが入っていた」などという事例は、その際たるものです。人間のすることではありません。これはもう「虐待」といったレベルではなく「犯罪」です。どうして「犯罪」として追求しないのでしょうか?ここにも社会の大きな問題があるように思います。
福祉の現場で「人間を回復する」「人の心を取り戻す」、その当たり前のことをするためにはどうすればいいのか。
いつも書いていることですが、障がいのある人達と「フラットにつきあう」「ふつうにつきあう」ことです。
二人ともアンジェルマン症候群といって、重度障がいの青年達です。重度障がいなので、何もできないのかというと、そんなことはなくて、こんな素敵な顔をして、まわりの人たちを幸せな気持ちにさせてくれます。私たちには絶対にできないことです。彼らにしかできないことなのです。そのことを謙虚に認めることから、彼らとの新しい関係が生まれます。
こんな笑顔をする人は街の宝だと思います。社会の中で一番大切にしたい人たちです。
「あ、今日もいい笑顔だね。」
って笑顔で言える関係を作ること。それが虐待をなくす、一番大事なことだと思います。そして楽しいことがあった時は、一緒にこんな笑顔になる。楽しいことを彼らと共有するのです。
彼らと一緒に本心で笑えるようになった時、失った「人の心」が戻ってきます。重度障がいの人たちが、失った「人の心」を取り戻してくれるのです。
「人の心」を失っているのは施設だけではありません。虐待、いじめは社会全体を覆っています。その社会を救うのはやっぱり障がいのある人達ではないかと思うのです。彼らのそばに謙虚に立つこと。そうすることで、私たちは「人の心」を取り戻すことができるのではないか。そんな風に思うのです。
【三谷雅純さんの応答】
「論座」編集長・松下秀雄さんの「論の座に座り、論じあう」という提案にそって、わたしも論の輪に入れていただきます。「【反響】「障がいのある人にしかできないこと」を謙虚に認める~そこから生まれる関係」をお書きになった高崎明さんの論に応答してみます。
わたしは人類学者ですので、人のすることを「なぜ、そんなことをするのだろう」と考えながら見るクセがあります。それは良いことも悪いことも含めてです。「良いことも悪いことも含めて」人間のやることには、それなりの理由があるはずです。わたしは理由を明らかにできなければ、何かが起こったときの対応もできないような気がしています。
例えば「ぷかぷか」のある神奈川県では障害者施設で多数の殺人が起きた「津久井やまゆり園事件」が有名です。「やまゆり園事件」を「世の中の常識を理解できない人が起こした事件」と片付けてしまうのは簡単です。しかし、わたしは「なぜやまゆり園事件を起こしたのだろう」「起こした理由は何だったのだろう」と考えてしまうのです。もちろん簡単に分かることではありません。高崎さんは「障がいのある人達と『フラットに付き合う』『ふつうにつきあう』」ことができていないからだとおっしゃるのかもしれませんが、わたしはその回答の先にある「フラットに付き合う」「ふつうにつきあう」ことのできない人たちに見えている「世界」が具体的に分からなければ、これから起こるかもしれないことに対応できない気がするのです。
「(「人の心」を失っている)社会を救うのはやっぱり障がいのある人達ではないかと思うのです」というご意見、わたしもそう思います。大賛成です。
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