
演説する安倍晋三元首相=2022年7月8日午前、奈良市
安倍晋三元首相が銃撃を受け、急逝した。
時には、その政治的に頑(かたくな)な姿勢が批判されることもあった。他方において、妻である安倍昭恵さんについて語る時の彼は、柔和な顔をした優しい人に見えた。不思議な二面性のある政治家だった。
私の恩師にあたる弁護士が、安倍元首相と面会した際のことを振り返って、「とても広い見識があった。何人もの政治家に会ってきたが、あれほど勉強熱心な政治家には会ったことがない」と言っていたことがある。
自らの理想と信念に燃え、まさに寸暇を惜しんでこの国の政治に取り組んでいたのだろう。

安倍元首相を追悼する献花台=2022年7月10日、奈良市
もちろん主張や立場の違いはある。しかし今は、一国民として、謹んで哀悼の意を表するとともに、ご冥福をお祈り申し上げたい。
著名人の死に感じるもの
個人的にも、これほどショッキングな事件は記憶にない。
著名人の死というのは、時に、知人の訃報(ふほう)に触れる感覚に近いものがある。
安倍元首相ともなれば、毎日のようにテレビ画面を通じて観(み)ていた。自宅のテレビという親密な空間において日々観ていた彼は、私にとって、誤解をおそれずに申し上げるならば「よく知っている遠い親戚のおじさん」のような存在になっていたのかもしれない。お会いしたことはないが、ある意味、それほど身近な存在になっていたのだ。
その彼が、銃撃されるというショッキングな映像を繰り返し観てしまい、少なからぬ精神的ダメージを受けている。多くの人も同様だろう。どうか自らの、そして周囲の精神的なケアに努めてほしい。
本稿は、書くかどうか、とても悩んだ。
故人を前にしてできることは、静かに喪に服することだけであり、私なんぞが、何かそれらしい意見をすることに意味があるとは思えず、むしろ不適切であるようにすら思えた。何より、現状では情報が限られすぎている。
しかし、どうしても眠ることができずに迎えた日曜日(2022年7月10日)の夜明け前、現時点において感じているこの事件に対する違和感を文章にしてみることにも、なにがしかの意味があるのではないかと思い、そして今、本稿を書いている。