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沖縄2022 伊江島で土地をめぐって米軍と闘った人たちを思う

那覇の市場から⑥

橋本倫史 ノンフィクションライター

フェリーに乗って、伊江島へ

 水納島(みんなじま)を訪れるたび、ビールを片手に海辺に佇み、海を眺めてきた。水納ビーチの正面には、伊江島が一望できる。その真ん中には、島のシンボルでもある城山がそびえている。古くから航海の目印とされてきた城山は、独特な形をしている。

沖縄県の伊江島=2021年撮影、朝日新聞社機から

 僕はずっと、対岸から城山を眺めるばかりだった。そんな伊江島に初めて足を運んだのは、今年の春のこと。本部港と伊江島を結ぶ「フェリーいえしま」は、水納島の「ニューウィングみんなⅡ」よりひとまわり大きいカーフェリーで、船内には売店もあって驚く。

 伊江港に到着すると、まずはフェリーターミナルの近くでレンタサイクルを借りた。1時間もあれば一周できる水納島にはレンタサイクルすらないけれど、ここではレンタルバイクもレンタカーも借りられる。

伊江島で。独特の形をした城山=筆者撮影

 自転車を走らせると、巨大な牛舎があり、セメント工場がある。たばこ畑やサトウキビ畑が広がり、製糖工場があり、その隣にはラム酒の醸造所もある。島の東側には風車も見える。ここには居酒屋もあれば、コンビニも数軒ある。水納島とは海を挟んで6キロ離れているだけなのに、風景はまるで違っている。それでも聴こえてくる鳥の鳴き声は同じだ。

 77年前に広がっていた光景も、ふたつの島ではまるで違っている。

目当ては飛行場、島に進攻した米軍

 太平洋戦争において、沖縄では国内で唯一地上戦が繰り広げられた。

 1945年4月1日、沖縄本島中部の西海岸に位置する読谷村から上陸した米軍は、2日後には東海岸に到達し、南北を分断する。北部の守りは手薄で、米軍は悠々と進軍し、4月16日に最北端の辺戸岬に到達し、レーダーを設置している。

 一方、第32軍司令部の置かれた南部は激戦地となり、首里が陥落し南部撤退が始まったあとはごく狭い地域で住民も巻き込んだ戦闘が繰り広げられ、多くの人が命を落とした。

 沖縄で集団的な戦闘が集結した6月23日は“慰霊の日”で、糸満市摩文仁の平和祈念公園では追悼式典が開催される。また、同じく糸満市にはひめゆり平和祈念公園もあり、沖縄戦と聞くと南部を思い浮かべる。ただ、南部には南部の沖縄戦があったように、北部には北部の沖縄戦があった。

 北部地域には、宇土武彦大佐が率いる独立混成第44旅団第2歩兵隊が配備され、本部半島の八重岳に主力を据えていた。この部隊の任務のひとつは、飛行場のある伊江島を極力長く保持することにあった。

 対する米軍は、「アイスバーグ作戦」と名づけた沖縄進攻作戦を展開する。

 その第一段階は「海軍投錨地及び水上機基地として慶良間列島を攻略」することとし、その第二段階に「全島の統制権を確立するため沖縄北部の伊江島を奪取・占領し、好立地条件にある地域に基地施設を追加して建設する」ことを挙げていた。

 米軍が水納島に上陸したのは、伊江島の戦いを念頭に置いたものだった。米軍は水納島の砂浜に砲台を構えて砲撃を開始し、4月16日に伊江島に上陸する。軍は15歳以上の青年男女が島外疎開することを禁じていた上に、空襲によって連絡船が被災しており、半数以上の島民が伊江島の戦いに巻き込まれてしまった。

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