「自分の弱さばかりが目についた」と厳しい目を向け続けていたからこそ
2022年07月21日
7月19日、羽生結弦選手が記者会見で競技生活に終止符を打ち、プロに転向する意向を発表した。2010年の秋にシニア競技に上がってから12シーズン。多くの負傷に見舞われながらも、ついぞ1シーズンも丸々休むことなく闘い続けた。
27歳の彼にいつかこの日が来ることは、予想していた。だが心のどこかで、スーパーヒューマンの羽生なら、まだまだ続けてくれるのではないか、という思いもあった。北京オリンピックの演技を見ても、少なくとも今季の埼玉世界選手権(2023年3月)までは十分にトップで競う体力はありそうに思えた。だがこうした余韻を残して潔く身を引く、というのはいかにも羽生らしいという気もしている。
筆者は羽生選手がシニアに上がった直後から、取材を続けてきた。中でももっとも印象に残っているのは2012年にトロントのクリケットクラブで、単独インタビューをさせてもらった時のことだ。
羽生が2012年3月にフランスのニース世界選手権で銅メダルを手にし、その後カナダのブライアン・オーサーコーチに師事することになった。トロントに拠点を移したばかりの彼を現地取材させてもらったのは、2012年8月。今からちょうど10年前のことになる。
当時のインタビュー原稿を読み返してみると、こんな時代もあったなと感慨深いものがある。当時の羽生の貴重な言葉を、ここで少し紹介してみる。
ニース世界選手権のフリーの後半で、羽生はステップの途中ですとんと尻もちをついた。その時どんな思いが心をよぎったのか。改めて聞くと、本人はこのように語った。
「途中でこけてしまったときは、もう帰りたくなるほどでした(苦笑)。でも4回転を降りた瞬間より、転んだ後のほうが声援がすごくて、その応援の力をもらってあの演技ができました」
「どうしよう、と思って、こけるまでもスローモーション、転んでから立ち上がるまでも20秒ぐらいかかったような気がしました(笑)。でも応援に背中を押してもらった。あの大会で、やっときちんと(応援の力を)受け止められたと思いました。誰にも言わなかったけれど、足首も痛めていて自分の中では不安でした。練習でもそれほど調子が良かったわけではなく、できるだけ短い時間に集中してやっていました。フリーに入る前に集中して目をつぶって入っていったんです。本当に観客の方々に力をもらって、感謝しきれないくらいです」
観客から力をもらった、というのはその後羽生が競技活動を通してずっと繰り返し口にしてきたことである。この大会の時に、17歳の羽生は「やっときちんと(応援の力を)受け止められた」と実感したのだという。
天下の羽生結弦にも、こんな時期があったのかと改めて懐かしく思い出す。その後彼が、世界でもっとも知名度の高いアスリートの一人になり、日本では外を自由に歩くこともままならなくなるだろうとは、当時は筆者自身も予想していなかった。
このインタビューではたっぷり小1時間ほど、話を聞かせてもらった。
だがこの取材から1年半、2014年ソチオリンピックで男子シングル史上初の日本人金メダリストになり、あれよあれよという間に羽生は「世界の羽生結弦」になった。そしてこのような贅沢な単独インタビューの機会は、なかなか訪れなかった。
その貴重な機会が再び訪れたのは、2017年8月。
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