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祈りと刑法~霊感商法を詐欺罪で立件するのは、なぜ難しいのか

世界でも珍しい「宗教に寛容な国家」の起源

園田 寿 甲南大学名誉教授、弁護士

刑事罰を適用した件数は非常に少ない 

 霊感商法とは、霊界や先祖の因縁、祟りなどの話題で人をことさら不安や恐怖、混乱に陥れ、そこにつけ込んで壺や印鑑などを法外な値段で買わせる悪徳商法の一つである。具体的な物(商品)ではなく、祈祷料や供養料などの名目で多額の金銭を要求する場合もある。

 霊や先祖の因縁など、何を信じるか、あるいは信じないか、また自分が信じることを人に勧めるかどうかは信教の自由である。しかし、霊感商法の場合は、今ある不幸の状態は先祖供養を怠ったからだとか、財産を神に捧げると地獄で苦しむ先祖の霊が救済され、本人にも幸せが訪れるといったような話が、かれらの持てるテクニックを尽くして被害者に対して巧妙にたたみ込まれていく。ときには密閉された部屋に長時間軟禁され、頭がもうろうとした状態で高額な開運グッズの購入や、教団への多額の献金を約束させられたりする。

 しかし、このような霊感商法がただちに詐欺罪に該当するのかといえば、そこには信教の自由の問題があって単純に線引きできるものではない。詐欺とは、嘘を言って相手をだますことが前提であるが、宗教上の教義は自然科学とは異なった別次元の話であるし、たとえば霊魂の存在にしても、そのような考え(教義)の真偽を物質的世界の問題として判定することができないからである。実際、霊感商法に刑事罰を適用した件数は非常に少なく、立件の難しさを物語っている。

旧統一教会の教祖ら幹部と政治家の関係について説明する「全国霊感商法対策弁護士連絡会」事務局長の山口広弁護士(右)=2022年7月12日旧統一教会の教祖ら幹部と政治家の関係について説明する「全国霊感商法対策弁護士連絡会」事務局長の山口広弁護士(右)=2022年7月12日

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国家神道下では軽犯罪として「霊感商法」を処罰

 話は明治維新にまで遡る。

 王政復古の大号令で始まった明治維新は、武士による政治を否定し、国家を千年以上も前の天皇中心の古代律令体制に戻すことが目的だった(たとえば、維新直後に作られた仮刑律の「律」とは、古代律令体制における「刑法典」のことである)。そして明治の精神的支柱となったのが、神社神道の国教化(国家神道)にほかならない。

 国家神道とは、皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点とし、すべての神社を国家が管理する制度である。皇室の祭祀と伊勢神宮の祭祀が国家の儀式として整備され、すべての神社にその遵守が課された。

 帝国憲法第28条が信教の自由を認めていたとはいえ、それはあくまでも「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限」(意訳:社会の平穏を害さず、天皇の民としての義務に違反しない限)りにおいてのことであり、他の宗教を信じ、布教することは、国教である神社神道と両立する限度で認められていた(明治2年の出版条例では「妄(みだ)リニ教法(注:宗教)ヲ説クコト」が処罰されていた)。神社に与えられたこのような特権的地位と、国教としてのその教義は、のちの軍国主義の核にもなった。

 ところで、戦前には警察犯処罰令という、庶民の生活秩序の維持を目的として比較的軽微な犯罪行為を取り締まるための規定があった(後の軽犯罪法)。

 その第2条17号は、「妄(みだり)二吉凶禍福ヲ説キ又ハ祈禱、符呪(ふじゅ)等ヲ為シ若ハ守札類ヲ授与シテ人ヲ惑ハシタル者」(意訳:道理に反して幸不幸や災いを説き、祈祷やまじないを行なったりお札を配って人をまどわすこと)を処罰し、また第18号は、「病者二対シ禁厭(きんえん)、祈禱、符呪等ヲ為シ又ハ神符、神水等ヲ与へ医療ヲ妨ケタル者」(意訳:病人に呪術や祈祷、まじないを行なったり、お札や霊験ありと称する水を配って医療を受けることを妨げること)を処罰していた。

 しかし、第二次世界大戦後に制定された日本国憲法で基本的人権としての信教の自由(第20条)が保障され、神社神道から国教的性格が剥奪された。何を信じ、何を信じないかは、原則として国家の関知するところではなく、国民の自由となった。

 礼拝・祈祷・宗教上の儀式などの宗教行為を行うかどうか、またそれに参加するかどうかの自由も保障された。その結果、警察犯処罰令も廃止され、第2条17号、18号の規定は軽犯罪法に受け継がれることなく失効したのだった。

 このようにして国家神道の縛りが解かれ、単に人の不幸や不遇を先祖供養や霊などの問題に帰属して、祈祷や除霊を勧めたり、それを信じたり、また、開運グッズなどの購入を勧めることも、購入することも、基本的に自由だとされたのだった。

 こうして世界でも珍しい、宗教に寛容な国家が生まれたのである。

祈りと心の平穏と「法の精神」との摩擦

 身の周りで不条理な出来事が生じたときや、努力が成就せず逆運に嘆くとき、人は「なぜ」という根源的な問いを発し、その答えを求めて苦悶する。

 たとえば、

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