新生ワシントン・ポストは「ジャーナリズムの独立」を守れるか〈連載第9回〉
ベゾス氏買収後の株式非公開化は、諸刃の剣
小田光康 明治大学ソーシャル・コミュニケーション研究所所長
情報を読者・視聴者と共に創る
WP社がまず実行したことは、報道の業務フローを紙面印刷優先からデジタル配信優先へと移行させたことである。ここで顧客別のローカライゼーションを実行した。記事のゲートキーピングを単一的に実行する編集体制から、ウエブサイト、スマートフォンのアプリ、紙面など記事の配信先によって最適化する体制に変更した。
ここで有料購読者優先のKPI(重要業績評価指標)を設定した。無料閲覧者のページビュー(PV)が多い記事よりも有料購読者の興味関心などのエンゲージメントを計測して編集方針に反映させたのである。加えてWP社はIT業界で普及するベータ版的な思考を導入した。コンピュータ・ソフトには正式版を発売前に提供される開発途上の試用版、ベータ版がある。これで不具合などを利用者に評価してもらう「ベータ・テスト」を繰り返し、完成版を作り上げていく。
これは既存の報道メディアの「情報を読者や視聴者に与える」という思考から、「情報を読者・視聴者と一緒に、しかも走りながら創る」という常に改善を追求するベータ版思考への転換である。これがWP紙への顧客のロイヤリティに直結するCXの本質であろう。この結果、WP紙で手薄だった食事やネット文化の分野も紙面展開したのである。
次がCXを柱としたデジタル・マーケティングの導入である。無料の閲覧者から有料購読者への移行や、広告の閲覧から商品の購入などのコンバージョン率を最適化するための「ABテスト」をサイト画面に導入した。例えば、2008年の米国大統領選でバラク・オバマ氏陣営は募金サイトに「ABテスト」を導入してコンバージョン率を4割も向上させ200億円を募った事例がある。
そして価格の低廉化と差別化である。WP社はこれまで米国の首都ワシントンDC周辺の購読者に対して比較的高額の購読料を取ってきた。デジタル化では少額料金を設定して、有料購読者層を増加させると共に、少数の大口広告主から多数のアドホックな広告主へと広告面でも間口を拡げた。
また、グローバル展開では国・地域ごとの価格設定を実行した。この際、報道記事に対する閲覧者のエンゲージメントの分析結果をもとに、配信広告をパーソナライズした。こうして新生WP社は「業態と商品の差別化」を形作っていったのである。
DXと人事政策も含む新規投資
ベゾス氏はWP社を250億円で買収し、加えてデジタル化と編集部強化で約50億円を追加投資した。これは表面的な新規投資額である。実際にはこの額で収まるはずがない。Amazon社でモジュール的な設計思想で構築したAWSのテクノロジーをWP社はArc XPに応用した。ベゾス氏が買収したWP社の真の投資額は、Amazon社から援用したメディア・プラットフォームに関する知的財産も含まれる。
非公開化されたWP社の財務内容は不明だが、これをWP社の「のれん代」として換算したら、初期投資に含まれた50億円ではすまない。この「のれん代」はWP社のバランスシートには計上されない。
Amazon社にしてみればArc XPに転用したAWSの研究開発費はすでに減価償却を済ませサンク・コスト化している。しかも、WP社はArc XPをモジュール思考で収益化可能なパーツとして外部にばら売りする戦略を採用した。こうして初期投資を短期に回収でき、財務体質の強化に繋げたのである。
しかし、新規投資は設備投資に限定されない。これにはスクラップ・ビルド費用が含まれる。
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