安倍元首相殺害を、犯罪学と、日本の古の掟から読み解く
2022年08月19日
安倍晋三元首相の殺害について、早急にひとつの正しい解釈を求めるより、様々な受け止め方を見聞きし、幅と深みのある理解にたどり着くことができればと考えている。既に、有識者のコメントが幾つも発信されているのはありがたいことである。ただ、政治的、社会的影響の大きさゆえ、案外、殺人事件としての地に足の着いた検討や意見が不足しているように思う。
私は、殺人事件を犯罪学から研究する者として、結論を急ぐことなく、この事件を殺人事件と政治テロ・暗殺として見た場合、どのように特徴づけられるか、考察し、議論の素材として提供してみたい。
最初にすべき検討は、殺人事件として何が特徴か明らかにすることである。結論を先取りしておけば、実は、この事件は、殺人事件に見られる一般的特徴をことごとく備える。その意味では「普通」の事件である。
日本の殺人事件は、過半が家族内、身内で起きる。今回なら、山上徹也被疑者が、恨んでいるという母を殺害するパターンである。父も兄も自殺しているが、これは一つ間違えば、家庭崩壊の元になった母を、父や兄が殺害していたかもしれないとみてよいであろう。だが、山上被疑者も、父、兄と同様、母は殺せなかった。むしろ、母も世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の被害者と見えていた。そのため攻撃対象は、旧統一教会となったということであろう。
問題は、旧統一教会への復讐(ふくしゅう)・反撃が、なぜ安倍元首相になったかである。殺人事件としての基本的なことを飛ばして、安倍元首相や旧統一教会の話を始めるひとが多いが、その割には旧統一教会についての認識が甘い。私は、何十年も以前から悪質商法(『現代のエスプリ 悪質商法』参照)という広い枠組みで、カルトを犯罪として研究し、実際にそれらと戦ってきた。悪質商法と呼ぶよりマルチ商法、ネズミ講の類という方が分かりやすいかもしれない。具体的には朝日ソーラーやら日本アムウェイ問題である(以下の概略を参照)。
〈朝日ソーラー問題〉
訪問販売で高額の太陽熱温水器等を、強引な販売手法で売りつけ、1997年には国民生活センターから問題企業として社名公表された。
〈日本アムウェイ問題〉
様々な商品を、マルチ商法的な手法で販売している問題点を、国民生活センターが指摘し、メディアにも大きく取り上げられた。
宗教団体を名乗っていてもマルチ商法でも同じだが、勧誘されて信者となった者は、目を輝かせて活動し、自分の周りの者を引き込む。自分も被害者だが、加害者でもあるというのが、カルト信者の悲劇である。目が覚めたとき、自分の加害性に気づき、自分にとって大事な人や家族を、どれだけ苦しめたかわかるため、自殺に至ることがある。山上被疑者の家族だけでなく、大量の自殺者を出しており、大量殺人者と比較すべきであるほど悲惨な結末を生み出している。
もちろん、カルトはオウム真理教のように本当に大量殺人することもあるのだが、「賢い」連中は、手をかけない。つまり、刑法上、凶悪犯罪になりにくい。もし、犯罪者の内心まで立ち入ってみたら、カルトの幹部ほど悪い犯罪者あるいは、反社会的な人は他にいないというのが、カルト研究者の共通認識である。一般に反社会的勢力と呼ばれる人たちは、彼らと比較すれば稚拙な暴力を振るうので犯罪者として検挙されやすく、カルトの主導者は、そう簡単に検挙されないという認識である。
カルトの問題で、多くの人が理解できないのは、なぜ騙(だま)されるのかである。この疑問は、しばしば、騙された側に責任があるのではという連想につながり、カルト対策がおろそかになる。
カルトと戦ってきたものの共通認識は、基本的に狙われたら、ほとんどの人が勧誘されてしまうというほどカルト側は巧みな勧誘技術を持っているというものである。集会などに、のこのこついて行ったらもうダメである。見事な勧誘マニュアルがあることが確認されているが、そこから、後の分析に必要になる重要な2点だけ述べておこう。
第1点は、証明できないうえ、ウソくさく思われるのでカルト啓蒙(けいもう)書では省かれる内容である。この見事な勧誘方法というより、洗脳方法を作ったのは、おそらくCIA(米中央情報局)だということである。
CIAに言わせると、毛沢東が、元中国の幹部たちを共産主義者に心を入れ替えさせる清風運動を成功させたのに脅威をいだき、それを洗脳と呼んで研究せざるを得なかったということである。世界中の多くの若者が共産主義に魅了されていた時代があったことを想起しなければならない。それに対抗する研究成果、対共産主義の逆洗脳方法は、洗脳方法そのものであり、これがCIAの外部に持ち出され、カルト集団が使っていると推察されている。騙す側は、信仰者ではなく、科学的な方法論によって洗脳するのである。
第2点は、勧誘の際に、警戒心を解かせ、信用力を上げるために、広告塔を用いることが常道となっていることである。朝日ソーラーのときは俳優の西田敏行をCMに起用していた。有名なカルトであるサイエントロジーの広告塔にされたとしてトム・クルーズが批判されたこともある。このような広告塔になる人物は、勧誘マニュアルの幾つかの手法のひとつの典型的な道具であり、広告塔の意思とは関係なく、見事に活用されて被害拡大につながっている。広告塔とされた人物は、本人は軽い気持ちで使われている場合もある。
例からわかるように、広告塔に最適なのは、いわゆる「おひとがよい」キャラクターの人物である。カルト集団にとっては、ビデオレターひとつで十二分である。ここでは、カルトが活動するためには手ごろな広告塔が必要不可欠なことを理解していただければよい。
そして、旧統一教会の日本における広告塔こそ安倍元首相であった。広告塔なのであるから資料は山ほどある。よくぞ、マスメディアはこれを全て無視してきたものである。
これらを踏まえると、結論は簡単である。
旧統一教会に大きなダメージを与えたかったら、広告塔の安倍元首相を亡き者にすることは、組織の急所をつく極めて有効な手段であり、完璧に論理的整合性がある行為とみえる。より精密に分析すれば、もし山上被疑者が、旧統一教会についての十分な知識を持っていたのであれば、そのとおりである。精神鑑定でぜひとも確認してほしい。
殺人事件の他の特徴についても述べておこう。殺しの動機は、簡潔に整理すれば、怨(うら)み、金目当て、動機不明(通り魔等)の3種。加害者と被害者の関係に注目すれば、順次、愛憎が深い関係、金を持っている情報のみあればよい知り合い、見知らぬ他人となる。
今回の事件は、深い関係(家族)のネジレ型になる。深い人間関係がある場合、加害者は相対的に弱者で、怨みを抱かれた、あるいは抱かせた被害者は、相対的に強者である。この強弱は、腕力も社会的な強弱も両方含む。強い方は、反撃のおそれがないので、殺す必然性はなく、毎日相手を攻撃あるいはいたぶればよい。弱者は、反撃が怖く、反撃できずに貯(た)めに貯めた怨念で一息に殺す。これが殺人事件の典型的な構図である。この特徴は、今回も典型的にあてはまる。
ここで非常に大事な点に触れなければならない。実際の怨みによる殺人事件を検討すれば、長年に渡って痛めつけられてきた加害者への同情を禁じ得ないケースに出くわすことは事実である。しかし、多数の殺人事件を比較して、その最大の特徴は、殺人既遂は、実行が極めてむずかしいということである。
殺す気になったり、殺すぞと発言したりする状態までは、人間の攻撃性からしてたやすく到達する。しかし、ナイフで刺しても、そこで少しでもひるめば怪我(けが)で済む。具体的な細かな行為、武器の使い方など検討すればわかることだが、たとえ、挑みかかっても滅多(めった)なことでは殺しきれない。犯罪学者から見て、最も単純化して説明すれば、殺せる人と殺せない人がいる。殺人者の成育史を研究すれば、殺人者は一日では誕生しないことがわかる。山上被疑者がやったことは、運悪く死亡した傷害致死事件ではなく、文句なしに殺人である。
刑法の考え方は明確で、たとえ被害者が、いかに酷(ひど)い人物、嫌われ者どころか、極悪人でさえ、それを「殺したるもの」は殺人者である。逆に、現実には珍しいケースだが、被害者が尊敬をあつめる人物であったとしても、それも重大な考慮事項ではない。安倍元首相の功罪についての評価と切り離して刑事裁判は行われるべきである。
宗教二世としての被疑者の生い立ちのみ、量刑のさいに考慮されるべきである。ここで今確認したことは、刑法学を学んだ者にはイロハなのだが、かなり知識があるはずの方々が、誤解されているように感じるので確認させていただいた。誰を殺しても、殺人は殺人であり、殺害者には重い責任がある。犯人の英雄視は論外である。政治テロとしての考察で、この点は再言及する。
殺人事件は、どうしても加害者に注目が集まりがちだが、近年犯罪被害者学も発展してきている。殺人事件は、被害者が加害者を、不用意な言葉、侮辱的な言葉で怒らせたり、先に殴ったり、恨まれたりして起きる。そのため、初期に被害者学は、犯罪の原因として被害者を研究し始めた。
しかし、丁寧に分析すれば、被害者に、犯罪の責任は全くない。人を殺してもよい理由などどこにもない。今回の事件でも、確かに安倍元首相が旧統一教会の広告塔になったことは不用意なことではあるが、彼に殺人事件の責任はゼロである。ただ、安倍元首相は、事件の原因となることをしたのも事実である。刑法理論ではなく、因果という意味では、無縁とはいえない。この部分が実は、ある文脈で重要であることについて、本稿の最後に触れたい。
さて、いよいよ政治テロとして、今回の事件を検討してみよう。
基本に戻れば、政治権力者の殺害は、正当化しようとすれば抵抗権の行使しかない。悪政への抵抗としての最後の手段としての暴力の正当化である。ところが、今回は、なんと国政選挙の直前である。国民は、政権を倒す適切な手段を与えられており、抵抗権を持ち出すのは、最も不適切な状況であった。
山上被疑者は、安倍元首相を殺害した影響など「どうでもよかった。知ったことではない。」といった発言をしている。この殺害は政治権力をめぐる行為ではなかった。山上被疑者は、反政府勢力ではなく、投票に行かない選挙無関心派であった。この部分の重要性には、寺島実郎が、朝日新聞のインタビュー(「新次元のテロと民主主義 『多くの予備軍』とは 寺島実郎さんに聞く」、2022年7月22日)で的確に指摘している。今回の事件は、これまで蓄積された政治テロについての研究からは、容易に分析できない。政治権力者の暗殺だから民主主義への攻撃であるという理解は、ことを単純化し過ぎた、誤った見方である。
ただし、典型的な政治テロ事件というのも、背後の組織はともかく、実行犯についてよく調べてみれば、異なった様相が見えてくる。アメリカ犯罪学会のテロリズム部会に私が、参加したさい、報告者であったMI5(英国機密諜報〈ちょうほう〉部)の部長は、政治テロの実行犯の成育歴を検討すれば、それは殺人犯そのものであると指摘していた。そのうえで、政治テロを防ぐには、一般市民が巻き込まれて亡くなっても、そこで犯行をやめない犯罪者の発生を無くさなければならない。英国の対テロ研究所の3分の1が犯罪学者だが、この比率は、大幅に上げるべきだと主張していた。私には、全く賛同できる提案である。
欧米諸国の対テロは、ひたすら武装強化と厳重警戒に陥りやすい。一般の犯罪対策も同様である。しかし、統計が明らかにしてくれるように、欧米先進国は、厳罰と厳重警戒をしながら、犯罪の発生率は、日本と比較すれば桁違いに多い。一般市民を犯罪から守るという点では欧米先進国の政策は失敗している。誤解されているが、刑事司法の人権侵害も日本より遥(はる)かに酷い。冤罪(えんざい)事件も桁違いに多いどころか、最近では対テロを正当化理由にして拷問さえできるほどである。欧米のほうが日本より民主的で人権擁護していることを前提に語る学者が多くいるが、少なくとも刑事司法においては、実態は逆である。
私は、もちろん、日本に西洋型の民主主義も人権意識も、根付いていないと考えている点では同じだが、日本には古くからある別の方法があると考えている。伝染病のコロナ対策でも、日本の狭義の政策は、世界のどこの国と比較しても酷かったが、結果は、素晴らしかった。以上のようなことを前提に、安倍元首相殺害に話を戻そう。私が検討したいのは、あの、あまりにも緩い警護のことである。
私は、フランスのミッテラン大統領の警護部隊が、どう選ばれ訓練されて配備されているかの特集番組を、パリ在住中に見る機会があった。その後、アメリカの要人警護についてもFBI(連邦捜査局)の担当官から話を聞くなど一定の情報は保持している。こと要人警護に関しては、欧米諸国は、しっかりしたノウハウを持っており、この方面では日本より成功している。
ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されたと反論する方もおられるかもしれないが、実行犯とされたオズワルドはダミーで、本当の実行者はFBIだと私は考えているし、これは珍しい考え方ではない。警護のやり方以前に、人員の選別、訓練、配置、しっかりした指揮官と指揮系統が必要であり、すごいものである。付近のビルの上、雑踏の中にも必ず人員がいる。ドローン攻撃対策班も必須である。
トランプ前大統領と北朝鮮の金総書記がシンガポールで会談したとき、シンガポールで警護にあたったのはグルカ兵である。彼らは、多くの国の要人警護を請け合い、傭兵(ようへい)として世界を転戦し、民間軍事会社でも働いている。銃撃戦や白兵戦の実戦経験豊富である。警察庁が、警護の再検討中だが、全然レベルが違うことを認識しておかなければならない。
ここから、全くオリジナルな私の見方を披露したい。日本の歴史上、たくさん起きた暗殺事件を振り返り、その特徴を見てみるとよい。飛鳥時代(645年)に蘇我入鹿が暗殺された政変「乙巳の変(いっしのへん)」以降、「桜田門外の変(江戸幕府の大老井伊直弼を水戸の浪士らが暗殺)」や「虎ノ門事件(摂政時代の昭和天皇が1923〈大正12〉年12月、無政府主義者に狙撃された)」など、政権の最も大切な権力者たちが、常に、おざなりの警護で被害者を出している。そして興味深いことに、それを改めたことがない。
今回も、欧米やシンガポールのような本格的な要人警護の仕組みは導入されないと私は予想している。私の説は、古来日本では、権力者はガチガチに警護を固めることは禁忌されているというものである。「権力者よ、そんなに怖がらなければならないほど、あなたは嫌われ、怨まれているのですか」ということである。
根拠は次の事実である。欧米では、大災害などで治安当局が機能しなくなったさい、力で抑えられていたものがあふれて暴動を引き起こす。これに対し、地震や台風が頻繁に来る日本では、その打撃の直後に全く警察力が失われた時でも、社会の治安は完璧であり、暴力団まで協力する。法律以前の掟(おきて)があることがここに確認できると私は考えている。その大災害直後、警察力が失われたときこそ、誰にも怨まれずに暮らしてきたことに安堵(あんど)する民がいる。
そのことを前提とした場合、安倍元首相の殺害は、どういう事件と受け止めるべきであろうか。西洋からの借り物の民主主義や刑法の考え方の応用を離れて、日本神話や昔話的な隠喩を使って考察してみよう。
権力を自分ひとりに集中さすことに成功した人物がいた。その権力者は、小さな石ころを蹴落とした。本人は小さいことと思ったようだが、その影響を増幅して利用する人たちのせいで大きな落石群となり、それに踏みつぶされた人たちがでた。家族を失った、その生き残りのひとりが、その権力者に復讐し権力者を殺害しましたとさ。
責任から逃れられることと因果から逃れられるかは別のはなしである。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください