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軍人墓を巡るちいさな旅~「英霊」を一人びとりの死に還元する

息子や夫、父の「いわれのない死」にもどさなければ「戦後」は現れない

會田陽介 フリーライター

死後も軍隊によってしばられた死者の墓

 ここ数年、墓地の軍人墓を巡るちいさな旅を続けている。

 軍人墓はもちろん、軍人・軍属として戦死した者の墓標である。竿石の頭部が方錐型になっているので、広い共同墓地でも見渡せば見つけやすい。方錐型は1874年(明治7年)の陸軍省による「陸軍埋葬地ニ葬ルノ法則」で階級により墓碑の規格が統一されたことに拠る。正面には戒名でなく、階級と氏名が刻まれる。死後も軍隊によってしばられた死者の墓だ。

大阪真田山旧陸軍墓地(筆者提供)

 大阪の真田山墓地のような、全国の主要都市にいまもひっそりと残る旧陸軍墓地等には、西南戦争から日清、日露、そして日中戦争へ至る戦死者たちの墓標が、地面に穿たれた無数の杭のように整然と並んでいるが、各地の寺や共同墓地では、軍人墓はそれぞれの家の墓域にあったり、あるいは墓地の入口に集落の軍人墓だけがまとまって祀られている。

グアム旅行でみた加害の跡と、「英霊」の文字

 ちいさな旅のきっかけはふたつ、あった。

 ひとつは5年前に家族で行ったグアム旅行だ。コロナ禍前、まだ多くの日本人観光客が集うタモン湾では1944(昭和19)年7月、二個師団55,000の米軍を待ち構えた日本軍のトーチカが忘れられた残滓のように佇んでいた。グアムは二万人近くもの日本兵が戦死した島だった。一日、レンタカーを借りて島内の戦跡をまわった。

 ジャングルに逃げ隠れていた米軍の通信兵の居場所を追及され、衆人環視のもとで行われた四日間の拷問の末に甥と共に日本軍によって斬首された、イエズス・バザ・デュエナス神父の亡骸が祭壇の下に眠るイナラハンの聖ヨセフ教会。そして米軍の上陸を目前にして、村から集められた屈強なチャモロ人の男性ばかり30名が殺されて埋められた、メリッソの丘にある「ファハの受難碑」。どちらも現地にはラテン語や英語の説明文のみで、もちろん日本人向けのガイド本には記述すらもない。この国に常についてまわる「加害の不在」。

 一方で島の北部に位置する、ジャングルに囲まれた小高い丘の上に整備された南太平洋戦没者慰霊公苑(South Pacific Memorial Park)、その日本寺の堂内には「英霊が栄光を賭けて得た尊い平和に 感謝を捧げましょう」との文字が躍っている。錆びついた階段を下りたジャングルの洞窟が日本軍の最後の司令部が自決したその場所で、わたしは現在、じぶんが住んでいる奈良県の歩兵第38連隊が全滅したことを知り、帰国後に近所の墓地などでグアム島(当時の日本名は大宮島)で戦死した兵士の軍人墓を探すようになったのだった。

ファハの受難碑(筆者提供)
日本寺の堂内に掲げられた「英霊が栄光を賭けて得た尊い平和に 感謝を捧げましょう」の文字(筆者提供)

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かれらを「英霊」のまま放置してきたわたしたち

 ちいさな旅のきっかけのふたつ目は、2015年8月の「戦争法案」反対の国会前デモだ。

 それまでデモなどに参加したことがなかったが、やむにやまれず、新幹線で上京して意思表示をした。デモの翌日に、何故となくはじめて靖国神社を訪ねた。遊就館の展示室で物言わずこちらを凝視する無数の「神 (命)」たちの物言わぬ視線と、未婚で戦死した息子のためにと母が奉納した花嫁人形が帯びたそのすさまじいまでの<いわれのない死>への願掛けを前に慄然とし、立ち尽くした。

肉弾三勇士の墓(筆者提供)
 記録作家の上野英信は『天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説』の中で、こう記している。「彼らの<死>は<天皇>と結びつかぬかぎり、実体をもちえません。<天皇>もまた、兵士の<死>と結びつかぬかぎり、実体をもちえません。両者がひとつに結びつくことによって、<天皇>と<死>とは、はじめて共に実体を獲得したのです。そうでないかぎり、しょせん、<死>は<いわれのない死>にすぎず、<天皇>は<いわれのない神>にすぎません」

 わたしたちは平和の裡に、かれらを「英霊」のまま放置していたのではなかっただろうか。ひっそりとした靖国神社遊就館で、わたしはそんなことを考えた。国家により結びつけられた死ではなく、かれらを一人びとりの「いわれのない死」にもどしてやれなければ、ほんとうの「戦後」は現れないのではないか。いつしかわたしは時間を見つけてはあちこちの墓地を訪ねて、グアム島の戦死者だけではなく、目につくすべての軍人墓を見て回るようになった。

死んだのは何万人ではない、一人一人の死が何万にのぼった

 「何百人という人が死んでいる――しかし何という無意味な言葉だろう。数は観念を消してしまうのかも知れない」 作家の堀田善衛は南京虐殺を描いた『時間』の中でそう詠嘆する。死んだのは何万人ではない、一人一人が死に、その一人一人の死が何万人にのぼったのだ、と。先の大戦で日本は軍人・軍属だけで200万人以上、民間人を含めると300万人以上が犠牲になったといわれる。沖縄戦だけでも、日米軍と民間人を合わせて約20万人の死者が出た。

 琉球新報の元編集委員で現在、沖縄国際大で教える前泊博盛氏が、毎年ゼミの生徒たちに「沖縄戦の犠牲者の数だけ米粒を数えて持ってきなさい」という課題を出すという記事を新聞で読んだ。茶碗一杯でおよそ4,000粒だそうだ。一粒一粒の米を死者の名を読み上げながら数えていく。わたしにとって、軍人墓をめぐる行為はそのような「体験」なのかも知れないと思うようになった。実体のない数字を一人びとりの「肉」に還元して、みずからと対峙させる「体験」。

「囲碁ヲ嗜ミ」「腹部へ貫通」 刻まれた「いわれなき死への思い」

 軍人墓の前で戦死した兵士の名をそっと読みあげ、手を合わせる。側面には亡くなった場所、日にち、享年などが記されているが、内容は墓によってさまざまだ。「昭和二十年一月二十八日南方方面ニ於テ戦死 行年二十才」とごくシンプルに刻まれたものが多いが、なかには「幼少ヨリ囲碁ヲ嗜ミ」から始まる来歴が詳しく語られるもの、また戦死の状況について「腹部ヨリ左側腹部へ貫通」と死亡原因が語られるもの、「南方四百米畑地」と戦死地点が語られるもの、「時正ニ午前十一時三十分」と正確な時刻が語られるもの、「壮烈無比ノ戦死」と形容されるもの、「嗚呼遂ニ」と嘆息されるもの、そして「以テ之ヲ録シ子孫ニ傳フ」と結ばれるもの。これらはすべて、残されたものたちの「いわれなき死への思い」が刻まれている。

「幼少ヨリ囲碁ヲ嗜ミ」から始まる来歴が語られている軍人墓(筆者提供)
4人の息子の名が並んだ軍人墓(筆者提供)

 正面に21歳から27歳まで4人の息子

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