前田和男(まえだ・かずお) 翻訳家・ノンフィクション作家
1947年生まれ。東京大学農学部卒。翻訳家・ノンフィクション作家。著作に『選挙参謀』(太田出版)『民主党政権への伏流』(ポット出版)『男はなぜ化粧をしたがるのか』(集英社新書)『足元の革命』(新潮新書)、訳書にI・ベルイマン『ある結婚の風景』(ヘラルド出版)T・イーグルトン『悪とはなにか』(ビジネス社)など多数。路上観察学会事務局をつとめる。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
嫌われても主張すべきは主張 “物言う世代”は老いてますます意気盛ん
「2025年問題」をご存知だろうか?
今から3年後の2025年に、終戦直後の4年間に生まれた700~800万人ともいわれる団塊の世代が全員「後期高齢者」となり、その多くは医療・介護に大きな負荷をかけると予想される事案のことである。かくいう筆者も、先の戦争で父親が復員して生まれた団塊世代である。
いったい「2025年問題」の何が問題なのか?
その最も根源的な問題は、当事者を埒外(らちがい)において議論されていることにある。
この問題については、さまざまな方面から社会的な警鐘が鳴らされている。だが、そのほとんどは当事者外からのものだ。「2025年問題」に関する各種審議会のメンバーに団塊の世代が入っていないことからも、それは明らかである。
大量に要介護者が増えることで、社会保障体制がパンクするだけではない。そもそも団塊世代は1960年代のベトナム反戦や全共闘運動、あるいはヒッピーなどのサブカルチャーを生んだ“物言う世代”であり、なされるがままに素直に「介護」を受け入れるとは考えにくい。ここがおかしい、あそこをこうしろと要求するに決まっている。ひょっとして、それを恐れての「予防措置」なのかと勘繰りたくもなる。
しかし、“一度起きてしまった子ども”である団塊・全共闘世代を寝かしつけることは容易ではない。今後、「2025年問題」について様々な施策が打ち出されるだろうが、このまま当事者不在では取り返しのつかない混乱を招き、後世に大きな禍根を残すことが危惧される。
そんななかで、この「2025年問題」の核心に迫ろうとするシンポジウムが、9月19日の旧「敬老の日」に神奈川県平塚市で開催される。
メインタイトルは、『団塊/全共闘世代の未来と課題2~当事者の視座から「2025年問題」を考える』。サブタイトルに掲げられたのは、なんとも挑発的な『物分かりのよい老人にならないと団塊世代は見捨てられる!?』
そしてパネリストは、上野千鶴子(社会学者)、久田恵(ノンフィクション作家)、三好春樹(生活とリハビリ研究所代表)、畑恒土(医療法人あいち診療会理事長)。いずれも当事者たる団塊世代である。(シンポジウムの概要は本稿末に掲げた)
このシンポジウムは、昨年11月に「在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワーク」と「地域医療研究会」が合併して新たに設立された「NPO地域共生を支える医療・介護・市民全国ネットワーク」(以下「地域共生医療・介護全国ネット」)が主催する「全国の集い」の一環として開催される。上述の二つの自主的組織は、長年にわたって地域における医療・介護を支える活動を展開してきたが、組織の若返りを図って活動を飛躍させるために合同にふみきった。
くしくも団塊の世代が全員「後期高齢者」となって医療と介護が歴史的転換に直面する2025年を目前に控えての絶妙なタイミングに、「地域共生医療・介護全国ネット」の第1回大会で本シンポジウムが開催されることは、シンボリックな意義をもつものといえよう。
シンポジウムでは、事前に当事者である団塊・全共闘世代にアンケートを実施、その集計結果を素材に、パネリストに議論を深めてもらい、「当事者」の視座から問題提起を行なうことを目的としている。筆者はそれを担当しており、1週間後の開催を前に、ほぼ最終集計を終えつつあるが、想定を裏切る興味深い結果が得られたことに、われながら驚いている。
これをパネリスト諸氏がどう読み解くのか興味津々だが、それに先立って、その一部のさわりをご案内しよう。