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ダム・鉄道建設の犠牲者が眠る「笹の墓標」を訪ねて

植民地政策の影、歴史を顧みて追悼する意味

中沢けい 小説家、法政大学文学部日本文学科教授

日本一寒い土地、北海道・朱鞠内へ

 京都のウトロで2021年8月末に起きた火災がヘイトクライム(差別憎悪煽動犯罪)による放火だと判明したのは12月になってからだった。

 同じ頃、北海道の朱鞠内(しゅまりない)にあった旧光顕寺「笹の墓標展示館」が焼け落ちたというニュースを知った。雨竜ダム建設とそれに先立つ鉄道建設の犠牲となった人々の悲劇を伝えてきたのが、旧光顕寺「笹の墓標展示館」だ。

 犠牲者の中には朝鮮半島出身者も多い。京都のウトロが戦争末期の飛行場建設の労働者の飯場が、戦後に在日韓国・朝鮮人の集住地区となったという歴史が思い合わされ、「もしや」と危惧したが、杞憂であった。

 「笹の墓標展示館」は雪下ろしのために使用していた屋外用暖房機からの失火だと判明した。

火災翌日の「笹の墓標展示館」=2021年12月27日

 聞けば北海道内でも有数の豪雪地帯で、しかも日本の最低気温である零下41・2度を記録した母子里(もしり)からもそう遠くない場所だ。いったいどんなところだろうと、出かけたくなったが、真冬にのこのこと出かける自信がなかった。寒い間は暖かな家の中でじっとしているのが好き、暑い時はクーラーの利いた家の中から外へは出ないというものぐさで、今年のような熱暑ではとうてい動く気になれない私がいよいよ朱鞠内の旧光顕寺「笹の墓標展示館」を訪ねたのは、9月の声を聞いてからだ。

 きっと寂しいところなのだろうなという予想があった。日本が朝鮮半島を植民地としていた時代に関連した場所を訪ねると、ひっそりと遠慮した様子の慰霊碑がポツンと建っていたりすることも多い。場合によっては、出来事の手がかりになるものは何もないと言う場合もある。何もないことを確かめて戻ってくるような旅行になるだろうとあらかじめ予想したのだが、地図で場所を確認してみると大きな人口湖である朱鞠内湖とキャンプ場以外、何もない。

 これはいつもの無手勝流で出かけて行って場所さえ特定できずに帰ってくることになりかねないと考えた。時々、そうした空振りをやってのけることが私は珍しくない。そこでネットを検索してみると「笹の墓標展示館巡回展」のHPを見つけたので、朱鞠内近辺の交通事情を問い合わせるメールを出してみた。

 北海道は地図を見ていても、感覚的に距離感がうまくつかめないというのも不安要素だった。最初に考えていたのは士別もしくは名寄からタクシーを使うという手段であった。私の問い合わせのメールに丁寧に答えてくださったのは金英鉉さんで、旭川から宗谷本線で名寄に出て朱鞠内へ行くバスを使うことをすすめてくださった。

 これがとても魅力的な交通手段だった。

鉄道・ダム建設、出版との関係

 前日に旭川へ入り、翌日、6時過ぎにでる宗谷本線のローカル線で名寄にでた。名寄で朱鞠内へ行くバスを1時間ほど待つ。バスに1時間ほど揺られることになる。

 バスは白樺の林の間の坂道を緩やかに登って行く。樹木の間から青い湖が見えた。なんてきれいな場所なんだと、目の覚めるような景色に感嘆した。青い湖の緑の島々が点在していた。

 朱鞠内湖は人口湖としては日本最大の湛水面積を持つ湖だ。複雑に入り組んだ岸と大小の島々は、雨竜第1ダム、第2ダム完成以前は山と谷が広がる原生林だった。パルプの原料となるアカエゾマツなどを王子製紙が切り出していた。

 苫小牧に製紙工場を持っていた王子製紙が雨竜川流域の電源開発を計画しだしたのは大正期のことだ。新聞、雑誌、書籍といった出版の興隆期と重なる。もちろん紙は出版のほかにも多様な需要がある。会社組織の近代産業が盛んになれば、膨大な書類作成がされるのだから、紙はいくらあっても足りないということになる。

 雨竜ダム建設でできた朱鞠内湖が、紙の需要の伸びさらには出版の産業との興隆と結びついていると知ると、なにやら複雑な感慨がわいてくる。

 ダム建設に先立ち、鉄道建設が開始されたのは1924年(大正13年)、ダム建設工事の本格化は1932年(昭和7年)で、中国大陸では日中戦争が始っている。ダムの完成は1943年(昭和18年)。戦争は日中戦争から太平洋戦争、インドシナ半島での対英戦争へと拡大していた。

 戦争のために働き盛りの10代後半から40代手前までの人々が徴兵され、労働力が不足していたことは、1929年生まれ(昭和4年)で横須賀の海軍工廠養成工を繰り上げ卒業した父から聞いたことがある。が、働き手の不足が当時の植民地の人々の動員に繋がっていると考えたことはなかった。うかつなことだ。

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