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ダム・鉄道建設の犠牲者が眠る「笹の墓標」を訪ねて

植民地政策の影、歴史を顧みて追悼する意味

中沢けい 小説家、法政大学文学部日本文学科教授

鉄道・ダム建設、出版との関係

 前日に旭川へ入り、翌日、6時過ぎにでる宗谷本線のローカル線で名寄にでた。名寄で朱鞠内へ行くバスを1時間ほど待つ。バスに1時間ほど揺られることになる。

 バスは白樺の林の間の坂道を緩やかに登って行く。樹木の間から青い湖が見えた。なんてきれいな場所なんだと、目の覚めるような景色に感嘆した。青い湖の緑の島々が点在していた。

 朱鞠内湖は人口湖としては日本最大の湛水面積を持つ湖だ。複雑に入り組んだ岸と大小の島々は、雨竜第1ダム、第2ダム完成以前は山と谷が広がる原生林だった。パルプの原料となるアカエゾマツなどを王子製紙が切り出していた。

 苫小牧に製紙工場を持っていた王子製紙が雨竜川流域の電源開発を計画しだしたのは大正期のことだ。新聞、雑誌、書籍といった出版の興隆期と重なる。もちろん紙は出版のほかにも多様な需要がある。会社組織の近代産業が盛んになれば、膨大な書類作成がされるのだから、紙はいくらあっても足りないということになる。

 雨竜ダム建設でできた朱鞠内湖が、紙の需要の伸びさらには出版の産業との興隆と結びついていると知ると、なにやら複雑な感慨がわいてくる。

 ダム建設に先立ち、鉄道建設が開始されたのは1924年(大正13年)、ダム建設工事の本格化は1932年(昭和7年)で、中国大陸では日中戦争が始っている。ダムの完成は1943年(昭和18年)。戦争は日中戦争から太平洋戦争、インドシナ半島での対英戦争へと拡大していた。

 戦争のために働き盛りの10代後半から40代手前までの人々が徴兵され、労働力が不足していたことは、1929年生まれ(昭和4年)で横須賀の海軍工廠養成工を繰り上げ卒業した父から聞いたことがある。が、働き手の不足が当時の植民地の人々の動員に繋がっていると考えたことはなかった。うかつなことだ。

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筆者

中沢けい

中沢けい(なかざわ・けい) 小説家、法政大学文学部日本文学科教授

1959年神奈川県横浜市生まれ。明治大学政治経済学部政治学科卒業。1978年「海を感じる時」で第21回群像新人賞を受賞。1985年「水平線上にて」で第7回野間文芸新人賞を受賞。代表作に「女ともだち」「楽隊のうさぎ」などがある。近著は「麹町二婆二娘孫一人」(新潮社刊)、対談集「アンチ・ヘイトダイアローグ」(人文書院)など。2006年より法政大学文学部日本文学科教授。文芸創作を担当。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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