持病の結石で「痛み」に慣れ、異変の自覚が遅れた
2022年10月14日
ジャーナリスト、隈元信一さんが自身のがん闘病を振り返る連載の2回目です。いまは歩行器で外出し、原稿執筆や大学の授業もできるようになりましたが、「余命宣告」を受けた1年前は……。
人には誰も、絶対に忘れられない瞬間というものがあるだろう。私にとって昨年、つまり2021年の9月6日がそうだった。
日本のがん研究・診療の拠点の一つ、がん研究会有明病院(東京都江東区)。激しい腰痛で仰向けになれない私は横向けでストレッチャーにしがみつくようにして、ベテラン男性医師の言葉を聞いていた。その一言一言が今なお脳裏で響く。
「もう二度と歩けるようにはなりません」
「ここまで広がると手術は無理。放射線、抗がん剤も命を縮める可能性が大きいので、使えません」
治療手段はないという宣告と受け止めた。
「予後は?」と恐る恐る聞いてみると、「3カ月から半年」という答えが返ってきた。
その1週間ほど前、8月31日から入院していた大森赤十字病院で、がんの告知はすでに受けていた。前立腺がんに神経内分泌がんが重なった混合がんで、全身の骨や肺にまで転移し、すでに最終ステージの進行がんだということも十分に理解したつもりだった。余命も「年単位は厳しいでしょう」という医師の言葉で、覚悟ができていた(はずだった)。
だが、大森赤十字病院からの紹介を受けて訪ねた権威ある専門病院でここまではっきり断言されると、さすがにショックを隠せなかった。
病床がいっぱいで転院受け入れは無理と聞いて、むしろほっとしながら大森赤十字病院に戻った。コロナ禍で面会謝絶のはずの妻が病室で荷物の片付けをしている。あとで聞いてわかったことだが、看護師長が「かなりショックを受けていらっしゃるようですから、しばらく一緒にいてあげてください」と勧めてくださったのだそうだ。
連載1回目はこちら。
私は1984年から88年にかけて、朝日新聞に「読むクリニック」という記事を連載していたことがある(同名のタイトルで3冊の本になっている)。様々な病気の専門医を訪ねるシリーズで、病気の基礎知識は身につけたつもりだ。とはいえ、医療は日進月歩。約35年前はもはや「大昔」と呼んだ方がいいかもしれない。
「読むクリニック」の最終シリーズは、末期がんがテーマの「死を見つめる」だった。当時はがん患者に病名を告知するかどうかが真剣に議論されていて、まだ告知しないケースが多かった。
東京都立駒込病院の名誉院長、佐々木常雄さんの著書『死の恐怖を乗り越える 2000人以上を看取ったがん専門医が考えてきたこと』(河出書房新社)によれば、この50年で医師の考え方や患者に伝える言葉は大きく変わったという。例えばこんなふうに。
〈50年前〉「あなたが死ぬなんて、そんな残酷なことをどうして言えようか!」
〈現在〉「もう治療法はありません。あと3か月の命と思ってください」
この「現在」の言葉は、私が言われたのとほとんど同じだ。今や「患者の知る権利や自己決定権、そして個人情報保護法も関係して」、医師が真実を隠さない時代になったと佐々木さんは指摘する。
そうわかってはいても、自分自身が患者の立場になってみると、医師の言葉が身にしみる。
泣きたくない時ほどあふれ出るのが、涙というやつだろう。静まりかえった深夜、コロナ禍で家族の付き添いもない、一人っきりの病室。痛みで眠れず、ようやく寝たかと思うと1時間ほどで目覚めて涙する。そんなことが何日も続いた。体の痛みで涙は出ないが、心の痛みは涙腺を激しく揺さぶる。
私は2017年春、63歳で新聞社を退職した。やっとフリーのジャーナリストになって会社の仕事から解放され、「さあ執筆活動に全力投球するぞ」と思っていた67歳での余命宣告だった。なすべきこと、書きたいことがまだまだいっぱいある。みっともないけれど、諦めがつくはずもない。
がんとわかったあと、何人もの友人・知人からこう問われた。詰問に近い人もいた。
「どうしてもっと早く異変に気づかなかったの?」
「兆しはなかったの?」
異変が全くなかったわけではない。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください